【山城博明通信員】ボリビア・オキナワ第1移住地在住の比嘉(旧姓新垣)久子さん(84)は70年余り前、学徒疎開で対馬丸に乗船するはずだったが、航路の状況悪化で祖母に「どうせ死ぬのなら沖縄で死のう」と引き留められ対馬丸には乗船せず難を逃れた。その後、無事熊本に疎開したが、沖縄戦で妹や親戚を失い、今も心の傷は癒えない。

九死に一生を得、沖縄戦で妹や親戚を失った体験を語る比嘉久子さん=ボリビア・沖縄第1移住地

 久子さんはペルー生まれの2世だが沖縄で教育を受けていた。戦前のペルーの日本人社会では移住するというよりは出稼ぎの気持ちだったので子供の教育は日本で受けさせたいとの希望があり、沖縄県人の間でも、ペルーで経済的に恵まれている人たちは子供を沖縄に行かせ教育させた。

 久子さんは1936年、6歳のときに沖縄に帰り、与那原の父方の祖母新垣ゴゼイさんの手で育てられ与那原国民学校に通っていた。41年には二つ違いの妹富子さんも沖縄に来た。

 疎開のため妹と那覇で乗船を待ち4日間滞在、その間に戦況はさらに悪化し航路も危険状態で「棒と綱を持参するよう」に言われ、家族に届けてもらうように連絡した。すると翌朝、祖母は与那原、那覇間の汽車に乗ってきて「どうせ死ぬなら沖縄で一緒に」と言って2人とも与那原に連れ戻した。

 久子さんは結局、1カ月後の2次船「室戸丸」で熊本へ疎開、妹は祖母と与那原に残ったが戦況悪化で祖母、妹、従兄弟新垣庸順、従姉妹新垣敏子の4人が戦死、疎開した久子さんだけが助かった。

 疎開先の熊本県芦北町湯浦で小学校を卒業、翌年八代女学校に入学。その後、父方の従兄弟が一般疎開で大分県に来たので比嘉さんは大分へ移り住んだ。

 対馬丸沈没について久子さんは、疎開から帰って沖縄に住んでいた間(47~52年)は知らなかった。「ボリビアに来てから、何かの記事を読んで知った。当時軍の命令で『住民には絶対口外を禁ず』とあり、日本国民に知られるまでに時間がかかった。その記事を読んだ時、怒りと悲しみを感じた」と話した。

 52年、ペルーへ帰国しようとしたが排日問題で入国できず、ボリビアへ来た。後年ペルーへ帰国したが60年、名護出身の比嘉照八さんと結婚して再びボリビアへ戻り現在に至っている。

 久子さんは「沖縄戦によって失われた家族の事を思い出すと、いまだに悲しみが湧く」と言う。10年前に帰沖した際、平和の礎に刻まれていた家族4人の名前を見つけた時は泣けて泣けてたまらなかった。「日本の教育を受けるために沖縄に送られた私たち孫を立派に教育してくれた祖母のことだけは一生忘れると出来ない」と胸の内を明かす。

 「戦前、戦中、戦後を乗り越えてきた私にとって今の沖縄は変貌し平和で豊かな島だと思う」と平和が続くことを願う。