米軍基地の再編統合の歴史をひもとくと、米軍普天間飛行場の辺野古移設計画がいかに無理で無茶な差別的計画であるかがよくわかる。

 米軍基地の大がかりな再編統合計画(本土を含む)は、旧安保条約が発効して以降、これまでに3回作成され、実施された。1回目が50年代後半、2回目が70年前後、3回目が米軍再編計画の下で進められている現在の基地統合である。

 岸信介首相とアイゼンハワー米大統領は1957年6月、すべての地上戦闘部隊を58年までに日本本土から撤退させる、との共同声明を発表。この合意に基づいて陸軍第1騎兵師団は日本から撤退、海兵隊第3海兵師団第9連隊も米軍政下の沖縄に移駐した。

 旧安保の不平等性に対する不満が保革を超えて高まっていたこと、内灘事件、砂川事件、ジラード事件など米軍基地をめぐる住民との衝突が相次いだこと、などが理由である。在日米軍は施設件数、土地面積、兵力とも激減した。 そのしわ寄せを受けたのは沖縄である。本土からの地上部隊を受け入れるため沖縄では、土地の新規接収が強行され、沖縄の米軍基地は急速に拡大した。

 軍事上の理由というよりも「(日本政府は)米軍基地を国内に置くことから生じうる政治問題を避けることができるという理由から、沖縄の米軍基地を歓迎」したのである(61年10月、米ケイセン調査団報告)。

 70年前後の2回目の再編統合計画の中でも、沖縄の負担と犠牲は解消されなかった。

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 首都圏に米軍基地が集中するのはまずいとの判断から73年1月に合意したのが「関東計画」である。関東平野にある米空軍基地を削減し、その大部分を横田基地に統合するという構想で、立川飛行場、キャンプ朝霞などが対象になった。

 横田基地に配備されていた戦闘機部隊は嘉手納基地に移駐し、横田は輸送・中継・補給基地として生まれ変わった。またしても、本土から沖縄へ、の移駐である。

 米軍は復帰の際、那覇空港に配備されていた対潜哨戒機P3Cを山口県・岩国基地に移駐する意向だったが、佐藤栄作首相の出身地だと日本側から横やりが入り、結局、嘉手納基地に移駐した。

 これもまた、「政治問題を避けることができる」という理由からの沖縄移駐といえる。

 この考え方は3回目の再編統合計画である現在の辺野古移設計画にも貫かれている。

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 防衛相を務めた経験もある森本敏氏も、今から5年前、沖縄でのシンポジウムで、海兵隊の配備先について「軍事的には日本国内であればよい。政治的にできないから官僚が道をふさいでいるだけ」だと指摘していた。

 政府は一体いつまで、このような不公平・不公正・理不尽な政策を続けていくつもりなのか。

 県民は名護市長選、県知事選、衆院選沖縄選挙区で明確に「ノー」の意思表示をしたのである。辺野古移設計画の見直しこそが最善の道である。