うりずんの 島の空 高く
黒い蝶が舞い 消えていった

事件に抗議する女性たち

遺棄現場に供えられた花

事件に抗議する女性たち 遺棄現場に供えられた花

緑豊かな やんばるに育まれ
愛をいっぱい浴びて 笑って 周りを照らして
そして 愛を確かめあった人と
命をあわせて 命を生み出し
愛のバトンを渡していく はずだった

その命のリレーは 唐突に終わった
20歳の光り輝く日に

彼女の残した笑顔が
あまりに愛らしかったので
天の神さまは
舞い上がる蝶の 最後の記憶を 消した

愛の詰まった地上の記憶
それだけを持って
黒い蝶は 天に迎えられた

神さまは
蝶の最後の記憶を
黒い粉にして
おろかな国の民
すべての頭の上に
まんべんなく 降らせた

そして
光り輝く季節を終わらせ
島の人々が 心置きなく泣けるよう
黒い雲で覆った

 今年3月に米兵が那覇で起こしたレイプ事件について、この連載(「三上智恵の沖縄撮影日記<辺野古・高江>」)の第45回で文章を書いた。あまりに五臓六腑を絞るように言葉を手繰り寄せて書いたせいか、その後具合が悪くなった。だから、軍隊と暴力とレイプの関係や、沖縄が70年も他府県と違ういびつな社会構造の中、告発する声さえ押し殺してきたことや、守れなかった島の男性たちの心をも壊すものであることや、そんなことはもう書きたくない。できればこの事件についてなにも書きたくない。事件の詳細は他でみて欲しい。ウォーキングをしていたら元海兵隊の男に突如棒で殴られ、性の捌け口にされて草むらに遺棄された。ここまで言葉を並べるにも、息を削るように不自然な呼吸になってしまう。このことについては冷静でいられない。

 5月22日の日曜は 米軍司令部の前で緊急追悼集会が開かれた。怒り悲しむ沖縄の女性たちの呼びかけに応じて、黒か白の服を着た人の列が道の両側を埋め尽くした。シュプレヒコールもなく、マイクで叫ぶこともなく、静かに葬列のように歩きながら満身の怒りをこめて「全基地撤去」を求めた。

 「謝罪と再発防止」はもういい。今回はみなそう口をそろえる。「綱紀粛正・オフリミット」。それで何も変わらなかった。事件事故の度にそんなごまかしで中途半端に抗議の拳をおろしてきた自分たちが、何よりも呪わしいのだ。殺人・レイプ・放火など米軍の凶悪事件だけで500件を超える。もしも過去のどこかで徹底的に抵抗して基地を島から追い出していたら、彼女の人生は続いていたのだ。

 敗戦と占領で、他国の軍隊との共存を余儀なくされた。でも70年もその状況を甘んじて受け入れ、変え切れなかったのはだれか。私もそのうちの50年、少なくとも大人になってからの30年の責任からは免れない。新たな犠牲が出るまでこの状況を放置したのは、私。変え切れなかったのは私だ。

 沖縄に住む大人たちだけの責任ではない。戦争をしないといいながら、よその国の武力に守ってもらうことの矛盾には向き合わず、彼らの暴力を見て見ぬフリをしてきた国民全員が加害性について考えてみるべきだ。「安全保障には犠牲が伴う」などという言説に疑問も持たずに、武力組織を支え、量産される罪を許し、予測できた犠牲を放置した。彼女を殺したのは元海兵隊の、心を病んだ兵士かもしれない。が、彼女を殺させたのは無力な私であり、何もしなかったあなただ。

 米軍の凶悪犯罪をもうこれで本当に最後にしたい。あらゆる対策は無効だった。どうすればよいか? すべての米軍に出て行ってもらうしかない。
「いくらなんでもそれはちょっと…」と言いながら、解決策も提示せず、動かずにいる人は、次に起きる凶悪事件の無意識の共犯者だ。

 「なぜね、命まで奪ったの? と犯人にいいたい」
 喪服を着て車椅子に乗ったまま、文子おばあは泣いた。
 「凍りついたようになって、何も言えないよ」

 シールズ琉球のメンバーとして基地問題に体当たりし、座り込み、声を上げてきた大学生の玉城愛さん。同年代の女性が暴力の末に草むらに捨てられていた事実を受け止めきれない、話せませんと、メディアのインタビューを辞退していた。

 「1995年の暴行事件は学んで、理解し、受け止めているつもりだった。でも当事まだ1歳で本当にはわかっていなかった。こんな私が人の前で言葉を発していいのか」

 混乱する彼女に、沖縄の20代の声を代弁してもらいたいと殺到するマスコミの群れ。両者の気持ちがわかるが痛々しい場面だった。

 高江のゲンさん一家は家族みんなで集会に来ていた。ゲンさんは前夜、一人でもゲートを封鎖しに行くといって、夜中の北部訓練場ゲートに向かったという。震えるような怒りでいっぱいのゲンさんたちは、翌日から本当に行動に出た。それは動画を見てほしい。

 1997年の市民投票のときからずっと辺野古の基地建設に反対してきた、瀬嵩に住む渡具知さん一家も親子で駆けつけていた。ちかこさんと私はこの20年、お互いにどれだけ基地のことで頑張ってきたか知ってるだけに、悔しくて情けなくて2人で泣いた。

 大学生になった武龍くんが言った。
 「むかし、妹が早朝にランニングしたいといったけど、家族全部で反対したんですよ。シュワブの兵士も走っているから、と。その時はちょっと神経質かな、と思ったけど、やっぱりこれが現実なんだと。散歩も、ランニングもできない。異常ですよ」

 この息子に基地だらけの島をプレゼントしたくない。そう思って渡具知さんご夫婦は自分たちなりの反対運動を始めたのだった。その息子が大学生になり、彼と同世代の女性が元米兵の狂気の犠牲になった。この家族が歩んだ20年を思っても、やりきれない。

 基地に苦しめられ、声をあげてきた方々と一緒に、こんな日を、さらに苦しくなるような日を共に迎えるなんて、私もどの人と話をしていても涙腺が決壊、まともにインタビューもできなかった。それはあのオスプレイがきた2012年10月1日と同じだった。1995年の少女暴行事件、その少女の受けた苦しみを無駄にすまいと頑張ってきたこの20年の日々は、これでもか、これでもかと打ち砕かれる。

 しかし、今回の怒りはどこまで広がるかわからない。先週末から辺野古では「殺人鬼は出さない」とゲート前に立ちはだかっているし、高江でも少人数ながら車と横断幕で米兵の出入り口をふさいだ。ゲンさんたちは北部訓練場に入る民間の作業車は入れようとしたが、米軍車両が引かないために通れず、渋滞ができた。でも作業車の人たちにその事情を説明したせいか、足止めになってつらいはずの運転手たちも「仕方ない。同じ県民だからわかるよ」と答えてくれた。

 沖縄県警もこの事件については思うところも多いのだろう。座り込みに対する対応も手荒ではなく、辛そうな表情をにじませる人もいた。今まで米軍基地に対して肯定的だった人や無関心だった人も、今回だけは許せないと動き出している。大規模な県民大会も6月19日と決まったが、今回は県民大会でガス抜きをするなどという形では収まらないだろう。

 20歳の輝く日に突然未来を奪われた彼女の苦しみを引き受けよう。そして肉親や友人らが抱えて行く二度と晴れない空を思って震えながら、いつか彼女が生まれてきた意味をみんなで肯定できる日を迎えるために、前に進むしかない。陳腐な怒りも、涙も、意気消沈も、責任のなすりあいも、彼女のためにならない。次の犠牲者のためにならないのだ。

 周囲の人たちの言葉から、愛に溢れて生きていた彼女のまさに花開こうとしていた未来を思う。それが閉ざされた。特に最後の数時間は彼女の人生にふさわしくないので、記憶ごと地上に置いていってもらおう。私たちが引き受けますから、光り輝く記憶だけを持って軽やかに天を目指してください。尊い使命を帯びたあなたの魂を、天がきっと癒すでしょう。そしてあなたが残した波紋が島を守る力になって、ついに暴力を払拭する日が来るはずです。みんなで頑張りますから、楽しみに見守っていてください。(初出:「マガジン9」 http://www.magazine9.jp