去年公開され多くの観客から高い評価を得たジャン・ユンカーマン監督の映画『沖縄 うりずんの雨』(キネマ旬報の文化映画部門第1位、毎日映画コンクールでドキュメンタリー映画賞受賞など)のなかで、とても印象深いシーンがある。

釈放後、逮捕された時の状況を説明する芥川賞作家の目取真俊さん=2日午後7時半ごろ、沖縄市

 2004年8月13日、在沖米軍・海兵隊のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した。普天間飛行場の危険性をまざまざと見せつけた大きな事故だった。その際、米軍は事故現場を一方的に封鎖して、沖縄の警察・消防・行政・大学関係者および報道機関を一切締め出すという挙に出た。銃で武装した米兵が、構内に入ろうとする大学職員や記者らを威嚇して追い払った。その光景をみて、沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミス氏が映画の中でこう呟(つぶや)いていた。

 〈18歳か19歳のガキンチョたちが、海兵隊の軍服を着て、自分たちより年上の報道陣に向かって大声で命令し、勝手に外国の領土に入り込んで人に命令する権威をもっているかのように振る舞っている。子どもだ。…すごい光景だ。同じことを日本の本土や、ドイツ、イタリア、英国でもやるかどうかはわからない。やらないんじゃないかと思う。…沖縄では確実にやる。〉

 世界史的に言うと、これは「植民地」でよくみられた光景だ。自分たちがその場所を占領していることを武力を誇示しながら正当化する。それに対して、もともとその地に住んでいた人々は、抗議し、抵抗し、ついには自分たちの土地・領土・海域を取り返す運動が巻き起こるという歴史が繰り返されてきた。

 言うまでもないが、沖縄国際大学の敷地は米軍敷地ではない。しかし事故発生時といういわば非常時には、彼らの本音が露呈する。沖縄は自分たちが第2次大戦を通じて分捕った「戦利品」なのだ、とでも言いたいかのように。2001年の米同時多発テロ事件直後にも、沖縄の米軍基地のゲートでは武装した兵士の銃口が沖縄県民に対して向けられていた。沖縄の悲しい、しかし確実に可視化されてきた歴史の断面だ。

 4月1日の午前、芥川賞作家の目取真俊氏が、大浦湾でカヌーに乗って、辺野古への新基地建設に反対する海上抗議行動を行っていた際、米軍の軍警察に刑事特別法(刑特法)違反容疑で身柄を拘束されるという事件が起きた。目取真氏は、カヌー隊と呼ばれる抗議グループの一員で長らく海上抗議活動に参加してきた。警備当局にも顔も名前も知られた人物だ。

 その日の午前もカヌー隊が大浦湾に入る際に、いつも通る海域からフロート(浮き)を越えて抗議を行っていた。とりわけ3月4日の国と県の「和解」以降は、海上保安庁の規制がかなり軟化して、フロートを越えて抗議行動を行っても海保は全く黙視していたという。その日以前にも同様の活動をしていたが軍警察は何も言ってこなかった。

 ところがその日に限って、軍警察は急接近してきて、陸の上に引きずっていき目取真氏の本名を呼んだのだという(以上は、目取真氏本人および目撃者の証言等による)。その後、目取真氏は、キャンプ・シュワブ内の軍警察の施設らしい場所に8時間以上拘束され、外部との交通も一切遮断されたまま放置状態にされていた。弁護士との接見もできないまま、その後、中城海上保安部に身柄を引き渡されたという。

 この事件の大きな特徴は、海上抗議行動に対して米軍当局が直接取り締まりに乗り出してきたことだ。海上の警備は一義的には、逮捕権をもつ海の警察=海上保安庁がその任に当たってきた。ところが今回は海保が黙って見ていて軍警察が前面に乗り出してきた。さらにはどうやら目取真氏を狙い撃ちした可能性がある。

 世界史を顧みるとき、「植民地」においては、傀儡(かいらい)政権や、傀儡勢力のごときものが常に生まれてきて、宗主国のために精勤奉仕する働きをしてきた。僕は20世紀以前の歴史のことを言っているのだ。けれども、そんなことを考えていたら、21世紀の沖縄においても、公約をかなぐり捨てて国の埋め立て申請を承認した前知事や、所属政党を転々と変えながら基地建設推進に転じて笑顔を振りまく沖縄県選出の政治家の姿が思い浮かんできてしまった。

 軍警察の今回の動きに、非常に捻(ね)じれた感情のようなものを感じ取った人は多いかもしれない。彼らは誰のために何をどこから守っているのだろう、と。翁長雄志県知事が、今回の出来事について「理不尽」という言葉を使ったことの重みを考えている。

 最近すばらしい映画をみた。アメリカのダルトン・トランボという『ローマの休日』などを世に送り出した天才的映画脚本家の伝記ストーリーなのだが(日本では7月公開予定だそうだ)、アメリカの赤狩り時代にハリウッドを追放され獄中に送られ、その後奇跡の復活を遂げた歴史上特記されるべき人物だ。

 映画のなかで、彼が戦争中、沖縄で従軍記者をしていた云々(うんぬん)と話すくだりがあった。それで彼の伝記を調べてみたら実に興味深い事実がわかった。彼の生涯を通じた反戦思想を培う大きな契機となったのが、第2次大戦末期、従軍記者としてフィリピンやインドネシア、そして硫黄島と沖縄で戦争の悲惨な現実を目の当たりにした実体験があったのだ。沖縄戦の記憶は世界の記憶を形作っている。傀儡にはそのことが決して見えないだろう。(2016年4月13日付沖縄タイムス文化面から転載)