国民的な課題としてクローズアップされている「子どもの貧困」。沖縄の新聞社が紙面でキャンペーンを展開したり、読者が寄付金など支援を申し出たりするなど、「なんとかしたい」「自分にできることはないか」という気運が広がっています。では、一市民としては何ができるのか。どうすれば根本的解決につながるのか。そもそも従来の児童福祉や学校教育の問題と何がどう違うのでしょうか。子どもの貧困に向き合うためのポイントを整理してみましょう。

学校給食

相談する生徒

ひきこもり

学校給食 相談する生徒 ひきこもり

 まず「子どもの貧困」の問題には、二つのポイントがあると思うのです。

 一つめは、「貧困」そのものが直接問題になっているような事例のことです。生活物資やライフラインが供給されなくて、生活そのものが不十分なものになる。新聞報道で紹介されるような、親の経済的破綻(はたん)に伴って十分な食事が摂れていないとか、お風呂に入れていないとか。あるいは塾に行けない、学費が払えない。結果として子どもの描いた(時には可能性を生かせるような)進路をあきらめる。次世代の貧困世帯だったり、貧困予備軍の創出につながる。経済的困窮が直接子どもの生活と(心身の)育ちに影響するものです。

 一方、「貧困」が背景となって、別の問題をより難しいものにしていくケースがあります。10年以上前に家庭訪問したある中学生は、登校が不安定で、服装からして定期的に入浴していない、食事もちゃんと摂れていない様子でした。自宅には畳がなく(部屋は畳間として造られているにも関わらず)、食材も含め生活物資がほとんどありませんでした。

 元々お父さんは土木関連の仕事をしていたのですが、仕事が不安定になり、お母さんは夜の仕事を始めます。徐々に稼ぎのいいほうへと進んでいく中、お母さんは風俗関係の仕事になっていったようです。お父さんもお母さんも数日に一度、家に戻ってきますが、子どもを置いてそれぞれの生活を始めてしまったという状況でした。私が家庭訪問をした頃は、両親はそれぞれ収入があったのですが、「家庭」に収入を持ち帰ることはなく、「子どもだけの貧困状態」(=養育拒否・ネグレクト状態)になっていたわけです。

 皆さんは、厚生労働省の「地域生活定着支援事業」をご存じでしょうか? あるいは「累犯障害者」と言われる人々の存在はどうでしょう? 15年近く前に、山本譲司さんという元国会議員が、自らの獄中生活記(新潮文庫『獄窓記』『累犯障害者』)の中で紹介し、注目された言葉です。厳密な法的定義はさておき、一般的に「累犯」というのは、犯罪(特に窃盗などの軽犯罪)をくり返すことと考えてください。そういう人達の中に、知的や精神あるいは発達の障害を抱える人達がいるわけです。彼らを単に罰に処するだけではなく、出所後に生活を支援することで生活環境を整え、再犯防止を試みていこうというのが「地域生活定着支援事業」なのです。

 累犯者の中には、学童期・思春期から知的や発達の問題を抱えていたにも関わらず、学校や家庭生活で十分対応されてこなかった人達が相当数いるのです。支援そのものが存在しなかった時代でもありました。しかしこれらの事例で、支援や配慮(その子どもを把握してその子どもにあった生活をさせてあげようという試み)をやれるような余裕のない家庭や保護者の姿が見えてしまうことも少なくありません。経済的困窮のために、学校や社会で提供されている支援につなげていこうとか、配慮していこうという余裕を持ち得なかった養育環境の中で、問題が先送りにされてしまった人達です。結果として成人期の生活に大きな負担となって、その後の人生を苦しめることになってしまったように思えるのです。

 貧困がさまざまな問題の背景になっているケースでは、子どもの障害、親の障害、不登校や引きこもり、虞犯(ぐはん)・触法などの非行、いじめ、虐待など、あらゆる子どもの問題と貧困の問題が複雑に絡み合って、余計に難しい事例になってしまうわけです。

 そう考えると、三つ目のポイントとなりますが、子どもの貧困対策は所得保障や生活物資の供給だけで十分なのかということです。例えば、子ども達の学習を支援したり、子ども食堂の実践を通して学習支援や食を保証したりする。貧困そのものに対応するような支援は、子ども達にとってとても大切な、「子どもとしていられる場」(居場所)になっていくのだろうと思うのです。一方で、それに伴う家庭や学校での問題(いじめ、不登校、虐待・・・)、非行や暴力、あるいは引きこもっている年長の兄弟の問題など、そこの支援の場を越境した問題に遭遇することも多くなるはずです。というよりも、そういう問題への窓口としての役割を、突き付けられていくのだろうと思うのです。では、その窓口で遭遇した問題にはどこが対応すべきでしょうか。

 そこから先は、単に所得保障や生活物資供給の支援といったレベルを超えたものとなる必要があるはずです。児童虐待や非行、不登校・引きこもりなど、「子どもに関わる問題」へ介入していく公的リソースやシステムに委ねるしかありません。これまで不十分だと指摘されてきた、特定の子どもの問題への解決・介入を扱うシステムです。

 私は、「子どもの貧困」というキーワードの裏に、これまでの「子どもの問題」への対応の不全感に関するある種のメッセージを感じています。

 いわゆる子どもの問題は、「非行」や「虐待」、「不登校」や「いじめ」「発達障害」などのように、問題を「生活」という文脈から切り離したキーワードで提示されてきました。少し難しい言葉を使えば「問題の脱文脈化」と言うのですが、そうすることで「専門家」と言われる人達を軸に据えた対応・対策が考えられがちになるわけです。私自身、医療機関(心療内科クリニック)で子どもの問題に関わる中で見えてくるのは、数週間に1回の「非日常的」「専門的」な時間・空間での診療やカウンセリングよりも、子どもや家族の「普通」の「日常生活」をどう送らせるかのほうが大切ということです。あるいは、子どもの「日常生活」に関与も反映もされない「専門的」治療や訓練は、「専門家」の自己満足になってしまいかねないと思うのです。

 「子どもの貧困」という、(日常)生活そのものに対して問題提起するフレーズは、これまでの問題解決へのアプローチの限界を示唆しているように思えるのです。

 生活から切りとった「問題」に対する専門家的思考と支援を行うのではなく、「食べる」「寝る」「遊ぶ」「引きこもる」「うろつく」「争う」「笑う」・・・など、普通の生活に入り込む思考と支援が求められているように感じてなりません。

 再度指摘しますが、「子どもの貧困」という生活に対する問題提起は、結局はこれまで十分な改善ができなかった「子どもの問題」に向き合うことを意味していると思うのです。これまでの子どもの問題解決へのアプローチに変化を迫るメッセージを、現場や行政の人達、そして我々市民全体で共有すべきだろうと感じています。