和解。愛用している新明解国語辞典によれば「仲直りして争いをやめること」とあった。米軍普天間飛行場移設に伴う名護市辺野古の新基地建設をめぐって、今月4日、にわかに生じた事態。あれは本当に「和解」なのだろうか。

辺野古訴訟の和解案受け入れを表明し、翁長雄志知事(左)と会談する安倍首相。右は菅官房長官=4日午後、首相官邸

 沖縄県はお人良(よ)しにもほどがあるよ。僕は直感的にそう思ってしまった人間だ。そもそも裁判所の異例の和解案にそんなに簡単に乗っていいものだったのか。日本の裁判所が、司法=法を司(つかさど)る、ものごとの理非を法に基づいて判断するという機能を著しく衰退させてしまった現実を嫌というほど見てきたからか。

 僕は、とても残念なことだが、裁判所をあまり信用していない。とりわけ近年の裁判所が示す判断は、行政追随、現状追認の様相が色濃く、官尊民卑=お上に優しく民に冷たい傾向が強まっているように思う。裁判所と言っても生身の人間たちの集合体だ。

 生身の人間だから、裁判官としての立身出世だの、家族の教育環境だの、給与だの僕らとあまり変わらない欲望を持っている人々から成り立つ。だから当たり前だが、司法府の組織としての自己防衛本能のような原理が働き、その時々の政治状況に敏感に反応するし、強い政治権力への忖度(そんたく)も存在する。

 福島第1原発事故の起こる前に提訴されたほとんどの原発関連訴訟は、丸めて言えば「原発は安全です。電力会社の主張は妥当です」と日本の裁判所は判断し続けてきた。原発推進という国策を追認どころか推し進めてきたともいえる。原発の危険性を訴えた民の声を押しつぶす機能を担ってきたのだから。

 僕自身も原告の末端に名を連ねた「沖縄密約情報開示訴訟」の最高裁判決と言ったら、これ以上ひどい中身はないというほど無残な内容だった。密約文書は外務省内で探したけれどもないものはないんだから、あんたら提訴した人間が自分たちで、あったことを証明しなさい、とばかりのひどいもの言いだった。密約文書の存在の立証責任を原告側に丸投げしたのだ。

 日本政府も外務省も、沖縄返還にともなう密約は「ない」「ございません」と長年国民に嘘(うそ)をつき続けていた。それが民主党政権下の有識者委員会の調査で一応「あった」ことになった(もっともあの調査も随分とお粗末な点があったのだが)。

 アメリカ国立公文書館では沖縄返還時の日米密約を裏付ける文書が公開されているのに、日本の外務省内にはいまだに「ない」ことになっているのだ。外務省は、沖縄返還に関する佐藤・ニクソン直筆署名入りの密約文書さえ「公文書」扱いしていない始末だ。後世の人々は何と思うだろうか。

 今回、裁判所が示した暫定和解案も全文が公開されてはいない。不可解なことに、裁判所は、県と国双方に和解案の内容を公表しないように要請していた。以下のような要旨だけが公表されている。(1)国、県双方の訴訟取り下げ(2)埋め立て関連工事の中止(3)国による埋め立て承認取り消しの是正指示(4)県による是正指示取り消し訴訟の提訴(5)国と県は円満解決に向けた協議を実施(6)国と県は、確定した判決に従い、互いに協力して誠実に対応することを確約。

 要するに、全くの仕切り直しである。翁長知事が埋め立て承認取り消しをした時点にまでプレイバックして、そのあとは、国に代執行という強権的な手続きを取らせずにデュープロセスを踏ませるということだ。是正指示取り消し訴訟で県が勝訴する可能性は高いか? 僕はそうは思えない。

 1番重要なことは(6)の「判決に従うという確約」だ。もし仮にここで県があくまでも辺野古での新基地建設阻止の態度を貫こうとしたならば、国はかさにかかって「判決に従うという確約」を盾に徹底的な弾圧に出てくる恐れがある。悲しいことに、一部の為政者は、判決とか法律を自分たちの意思を通すための「道具」としてしか考えていないものだ。それを見越して、忖度して、裁判所が乗ってきやすい「和解」案なるものを用意するという構図。そんなふうでなければいいのだが。

 去年の安保法制の国会審議の際、参議院の中央公聴会で、集団的自衛権容認が合憲だというアクロバティックな解釈を意図する人々のことを「法匪(ほうひ)」と呼んだ人物がいた。元最高裁判事の濱田邦夫弁護士だ。「法匪という言葉がございますが、法文そのものの意図するところとはかけ離れたことを主張する、悪(あ)しき例である」「とても法律専門家の検証に堪えられない」と断じていた。僕はそれを聞いていて本物の司法官を見たような思いがした。かつては最高裁にもこのような人材がいた。

 視界を少し広げてみよう。「放送法」というテレビ局やラジオ局の放送の自由と自律、独立をうたった法律を、いつのまにか「取り締まり法規」のように読み替えて、メディア規制に使おうとしている為政者と役人たちがいる。「法匪」の跋扈(ばっこ)する時代に僕らは生きている。そういう状況のなかで、一体どこまで裁判所を信用できるか。

 沖縄在住の友人・知人たちにこの「和解」の件について話を聞いてみたが、「県議選やら参議院選の選挙対策でしょ」「国側が負けそうになったから和解に乗ってきたんじゃないの」「沖縄側の民意の勝利さ」「工事が止まること自体はいいことでしょ」と、なぜか楽観的な声が多く聞こえてきた。でも僕は思う。本当にこれは「和解」なのかと。あとから振り返ってみて、あの時の「和解案」が引き返し不能の地点だったのか、とならないことを祈るばかりだ。

 翁長雄志知事が去年末に出版した自伝的著書『戦う民意』にこうあった。「生身の人間である私たちは、これからも場合によっては木の葉のように舞い散るかもしれません。しかし、それでも私たち責任世代は、自分の姿を伝えて、子や孫の世代に勇気と誇りと自信を持ってもらいたいと思います」。ああ、ワジワジーする。無性に沖縄そばが食べたくなった。「和解」はそれを食べた後に、また初めから考えることにしてはどうか。(2016年3月8日付沖縄タイムス文化面から転載)