24日投開票の宜野湾市長選挙を前に、普天間基地の跡地にディズニーリゾート施設を誘致しようという話が首相官邸筋などから唐突に出てきたことについては、すでに多くの報道がなされている。この話を耳にした瞬間、私は実に「嫌な感じ」を催したのだが、その後この件についての新たな情報に接する度に、その感覚は強まるばかりである。

沖縄の米軍基地に掲げられた星条旗と日章旗

ジャングルでの戦闘を想定し訓練する米海兵隊=2013年1月、国頭村・米軍北部訓練場

沖縄の米軍基地に掲げられた星条旗と日章旗 ジャングルでの戦闘を想定し訓練する米海兵隊=2013年1月、国頭村・米軍北部訓練場

 すぐにわかってきたのは、この話が雲を摑むようなものでしかないということだ。12月9日には、経営母体となるはずのオリエンタルランド社が「宜野湾市からの要請に関する報道がされておりますが、本件は当社として今後慎重に検討を行っていくものであり、現時点で対応方針など決定している事実は一切ありません」と、公式なリリースで述べている。市議会で議論されたこともなく、市職員も何も聞いていないと証言していることが報じられるなかで、菅官房長官らの発言だけが異様に突出している。さらには、「ディズニーリゾート施設を誘致」というと、何か東京ディズニーランドやディズニシーに似た壮大なテーマパークが出現するかのようなイメージが湧くが、よく確認してみると、現実性のあるものとしてはせいぜいリゾートホテルとプラスアルファのショッピングモール程度が望めるにすぎない。

 2013年の名護市長選の際に自民党の石破茂幹事長(当時)が、500億円の振興基金新設をぶち上げたことは記憶に新しい。選挙が近づくと俄かにこうした巨大案件を浮上させるという点は共通しているが、今回はその具体性・現実性の次元で案件が空疎化していることは明らかであり、自民党政治の一層の劣化を感じざるを得ない。

 だが、この件に関して私が最初から懐いている「嫌な感じ」の根源は、別の所にある。よりによってディズニーとは……という印象が頭を離れないのである。仮に、ディズニーリゾート施設なるものが集客を期待できる大規模なテーマパークを意味するのだとしても、それは米軍基地の跡地利用の用途としてふさわしいものなのか。

 沖縄米軍基地問題について発言するようになってあらためて痛感するのは、本土の日本人たちのこの問題に対する「他人事」的感覚、無関心である。「申し訳ない」「気の毒だ」と感じている人間も少なくないが、同情もまた他人に対する感情でしかない。本土のほとんどの日本人がわかっていない決定的なポイントは、沖縄の基地問題において現れている暴力と服従の構造は、日本全体が置かれている状況を縮図的に表しているものにほかならない、という事実である。

 いわゆる対米従属の問題全般も、従属の事実がはっきりと認識されている限りでは、さほど不健全なものではない。「主を畏るるは知恵の始まり」(『旧約聖書』)。従属の事実を知る者にはそれ相応の知恵も芽生えるのだ。これに対し、日本の対米従属が世界に類を見ない異様なものであるのは、この事実が誤魔化され、認識できないようにする仕組みが存在するためである。言い換えれば、この誤魔化しを維持することによって発生する巨大な利権に群がる勢力がGHQに代わって帝都をいまだに占領下に置いているのであり、その許で生きる者たちは当然、己の正体を見失い、知恵を失う。それが本土の日本人の姿である。

 なぜこのような奇怪な事態が生じてしまったのだろうか。私の見るところ、その原因は戦後途轍もない量で流入した「アメリカ的なるもの」の二面性とその変容にある。先の大戦が終わったとき、アメリカ的なるものは二つの顔を持って入ってきた。一面ではそれは、暴力である。あの戦争において日本を打ち負かした「暴力としてのアメリカ」があり、それは敗戦した日本にアメリカの属国になることを命じ、その命令を占領軍の存在によって裏づけた。同時に他方で、戦後の日本人は、アメリカ的なるものに激しく魅了された。圧倒的な物質的豊かさ、その文化の屈託のない明るさ――こうした側面は、アメリカに対する強烈な憧れの感情を喚起した。この「文化としてのアメリカ」の側面が、アメリカン・デモクラシーと一体となって、昨日までは鬼畜呼ばわりしていた敵を「素晴らしき友人」に変貌せしめたのである。当然アメリカ自身も、戦後の対日戦略におけるこの二面性の重要性を深く意識していた。むき出しの暴力による支配は長続きし得ない以上、究極的には暴力によって支配を担保しながらも、いかにして自らを愛させるのかという戦略が決定的に重要であることを、明瞭に理解していたのである。