宜野湾市長選挙は1月24日に投開票が行われる。現職、新人それぞれを応援する方々がやってきて署名を集めているが、今回だけは簡単に署名ができない。
 昨年は戦後70年の節目の年だった。マスコミの戦後70年特集をご覧になった方も多いと思うが、そこで障害者のことがどれだけ報道されただろうか。私が最も知りたかったことは、沖縄戦中にあって、障害のある方々はどういう状況に置かれたのか、ということだ。

自立生活センター・イルカで仲間たちと過ごす筆者(中央)

 目が不自由な視覚障害者には、敵の戦闘機の音を聞き分けて住民に伝える役割があったという。じゃあ、耳が不自由な聴覚障害者は、手足が不自由な肢体障害者は、どういう役割を与えられたのか? パニックを起こしやすい知的障害者は防空壕でどう過ごしたのか? 

 傷痍軍人になった方々や、薬も食べ物もない中で死んでいく人たちが多かった中で、国のお役に立たない障害者の先輩たちは、どのように「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦を生き抜いたのだろうか。

 疑問に答えてくれる戦後70年特集は、少なくとも私が見た範囲では一つもなかった。

 敗戦後、沖縄は本土と切り離されて米軍の統治下(アメリカ世)に置かれた。親を亡くした子どもたちを救済する制度ができた。戦争で障害を負った人や、沖縄は精神障害者が多いという指摘もあるが、彼らへの十分なケアはなかったと聞いている。

 多くの問題を抱えながら沖縄県は1972年に日本本土に復帰した。障害者福祉政策もできた。その後沖縄も発展を遂げ、昔に比べればこんなに裕福になった今からは想像もできないし、簡単に言葉にしてはいけないと思うが、ここに記しておきたいことがある。

 幼いころの記憶だが、隣の家に精神障害者の男性が住んでいた。庭の小さな小屋に住まわされ、外から鍵をかけられていた。時々大声を出すことがあったが、その時、家族の男性が出てきて鞭を振るっていたことを覚えている。今思えば、一人だけ離れに住まわされ、寂しくて大声で訴えていたのではないだろうか。

 私も含めてであるが、親戚が集まる場では本人だけでなく親やきょうだいも肩身の狭い思いをしている。人権意識が高まり、障害者施策が進展している今でも、心ない言葉に傷ついている障害者は少なくない。

 今回の市長選に限らず、すべての選挙に共通して言いたいことがある。

 公約やマニフェストを掲げる前に、障害者差別や偏見をなくすこと、周知することを実践してほしい。そもそも、宜野湾市議会の傍聴席は階段状になっていて、私たちのように重さ100キロの電動車いすで移動している者は、議会を傍聴することすらできないのである。これは「間接的差別」に当たると何度も言ってきた。立候補者には選挙のたびに改修するよう求めてきたが、実現していない。

 また、首長や議員になろうとする方々は、障害者福祉政策や国の動向(障害者福祉基本法、障害者条約、沖縄県障害のある人もない人も共に暮らしやすい条例、障害者差別解消法)などをきちんと勉強し、よく理解した上で「福祉の向上」を掲げるべきだ。

 特に今年4月から「障害者差別解消法」が施行される。法は「障害者の取り巻く環境を改善していくことが必要」と定めており、人間として大事な成長の時期にある子どもたちへの「合理的配慮」を最優先に取り組んでほしい。

 先日、沖縄の経済界の偉い人が「基地イコール観光にマイナスということにはならないと思う」と述べたという。本当にそうだろうか?

 今から15年前。2001年の9月11日に「アメリカ同時多発テロ」が起きた。米軍基地がある沖縄は、日常生活が一変した。基地の入り口ではものものしい検問が行われ、国道を走る一般車を調べることもあった。これに通勤ラッシュが重なった時の混雑はすごいものがあった。修学旅行などのキャンセルも相次ぎ、ホテルやお土産品店などが大打撃を受けた。私はその時に初めて、基地があることで生活環境が変わることの恐さを痛感した。

 その3年後、04 年8月13日に宜野湾市の沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落、炎上した。まだ頭に残っている。宜野湾は市の中心に米軍基地があり、その周りには子どもたちが通う学校もたくさんある。爆音は勉学の妨げになるし、安心して寝ることもできない。でも、だからといって、よそに移せばいいというのではない。

 どこにいても、障害があってもなくても命の重さは同じだ。