■息子の個人情報がなぜ、断りもなく自衛隊に

 「自衛隊に適齢者の名簿提供 沖縄市と宜野湾市」(『沖縄タイムス』2015年11月3日)。

自衛隊への名簿提供を伝える沖縄タイムスの記事(2015年11月3日)

市民広場の開放を伝える沖縄タイムスの記事(2013年1月9日)

住宅地上空を飛来し普天間飛行場に着陸するオスプレイ=2013年8月3日、普天間第2小学校近く

新基地建設に反対する市民らと抗議の声を上げる「ベテランズ・フォー・ピース」のメンバー=12月11日、名護市・米軍キャンプ・シュワブ前

自衛隊への名簿提供を伝える沖縄タイムスの記事(2015年11月3日) 市民広場の開放を伝える沖縄タイムスの記事(2013年1月9日) 住宅地上空を飛来し普天間飛行場に着陸するオスプレイ=2013年8月3日、普天間第2小学校近く 新基地建設に反対する市民らと抗議の声を上げる「ベテランズ・フォー・ピース」のメンバー=12月11日、名護市・米軍キャンプ・シュワブ前

 この記事を見た時、わが家の次男も自衛隊の台帳に載せられたのかと、がく然としました。長男が宜野湾市内の高校を卒業した時には、どこから個人情報を収集したものか、自衛隊から勧誘DM(ダイレクトメール)が家に送りつけられました。次男の時にはこのようなDMはありませんでした。ところが、なんと宜野湾市が17歳から26歳までの男女9,900名分の名簿をごっそり提供していたとは!

 自衛隊の勧誘については、40年以上も前の苦い思い出があります。1972年の沖縄の本土復帰の頃のことです。冬休み帰省かなにかで東京から仙台の大学に戻るために、乗り継ぎの上野駅近くの公園でひとり夜行列車の出発時刻を待っていました。貧乏学生だった私は、普通運賃の他に特急や急行券を求めることができず、コーヒー一杯が立ち食いソバより高い喫茶店に入る意気地もなく、外灯の下の冷たいベンチで時間を持て余していました。

 その姿が、仕事にあぶれ生活に行き詰まった人のように見えたのでしょうか、声をかけてくる紳士がいました。それが自衛隊の勧誘でした。上野は東北からの終着駅で、特に冬場は北国の極寒と経済苦から、出稼ぎの仕事を求める人であふれていた時代でした。過疎化を逆手にとって原子力発電所が次々と建設され始め、追い立てられるように人々が降り立ったのが上野駅。そしてそこは、自衛隊リクルーターの「シマ(縄張り)」でもあったことを身をもって体験したわけです。

 今、アメリカでは格差社会の貧困層をターゲットにした「経済的徴兵制」が問題になっていますが、日本でもずっと昔からやられてきたことです。今年から運用が始まったマイナンバー制度で個人の経済状況が逐一監視されることになると、住民票と突き合わせて困窮者を「徴兵」できる台帳が瞬く間にできあがってしまいます。

■市民広場と駐車場のこと

 普天間基地がど真ん中に居座るせいで宜野湾市は人口密度が高く、商店街や市役所は慢性的な駐車場不足です。そこで、市役所や普天間商店街に隣接する遊休化した米軍への提供地を宜野湾市が管理し、市民広場、駐車場としていました。

 ところが、2012年9月のオスプレイ反対の県民大会で示された民意が顧みられることなく10月に配備が強行されたことから、普天間ゲートには連日、抗議の市民が駆けつけました。11月初め、普天間基地司令官が突如、この市民広場と駐車場を閉鎖しましたが、年の瀬の普天間市場や普天間宮の初詣の人出に備えて駐車場の再開を要望する声が市民の間に膨らみました。そこで市は司令官と交渉した結果、市民広場の利用者は許可証を申請すること、駐車場は抗議行動の車両排除を条件に再開することに合意しました。

 その時から広場には、市の負担で警備員が置かれています。駐車場はというと、小さなワッペンを張った車はもちろん、県民大会シンボルカラーの赤いタオルやゼッケン、帽子などが車内にあるだけで、「巡視の米兵から抗議行動の車両と見なされるから」と、係の人から退去を命じられます。米軍監視の無言の圧力が元で、顔見知りの駐車場管理の人たちと目が合っても、以前のように心の通った笑顔を交わすことがなくなってしまいました。