米軍普天間飛行場の移設先とされる名護市辺野古の埋め立て承認を取り消したのは違法だとして、取り消しの撤回を求めて国が翁長雄志知事を訴えた代執行訴訟の第1回口頭弁論が12月2日、福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)で開かれた。

沖縄県名護市辺野古の埋め立て承認をめぐる代執行訴訟の第1回口頭弁論で意見陳述を待つ翁長雄志知事(沖縄タイムス提供)

レーザー照射事件で容疑者の自宅を捜索し押収品を車に詰め込む捜査員(沖縄タイムス提供)

沖縄県名護市辺野古の埋め立て承認をめぐる代執行訴訟の第1回口頭弁論で意見陳述を待つ翁長雄志知事(沖縄タイムス提供) レーザー照射事件で容疑者の自宅を捜索し押収品を車に詰め込む捜査員(沖縄タイムス提供)

 この日、「被告」として意見陳述した翁長知事が最も訴えたかったのは、「国民すべてに問いかけたい」という言葉に凝縮されているように感じられた。公有水面埋立法や地方自治法に基づく法律論にとどまらず、辺野古への新基地建設によって子や孫の代にもわたって過重負担を強いられることの理不尽さを、訴訟を通じて全国世論に訴えるのが沖縄県側の主眼である、と各紙も解説している。

 だがこれは裏を返せば、法廷闘争では勝てる見込みはほとんどない、ということでもある。私が把握している限り、日本国内で米軍の運用に支障を来す可能性のある司法判断が下されたケースは、砂川事件に対する1959年の一審判決(伊達判決)が最初で最後である。とはいえ、法廷の場をできる限り有効に活用しようという県の戦略が誤りだとは思わない。裁判の判決とは別に、公の場で「義」はどちらにあるのかを問えば、沖縄県側が国に負けることはないと考えられるからだ。問題はそれを、どう有効化していくかということではないだろうか。

 こうあるべきだという「ベき論」が通じない日本社会の現状については、先月の拙稿「続『べき論』の通じない日本社会で」に書かせていただいた。要約すれば、米軍基地問題をめぐっては、沖縄に基地が集中していることで恩恵を受けている日本本土とは利害が相反する立場にあり、沖縄側が本土側の「良心の呵責」に訴える手段には限界がある。沖縄は「日本の民主主義」によって切り捨てられているのが現状であり、これは「沖縄の民主主義」と「日本本土の民主主義」の利害が一致しないことに起因している。

 「辺野古」をめぐって政府権力が剥き出されるのに呼応して、沖縄側も封印を解いて「県外(日本本土)移設要求」にシフトした。この点において、日本政府と沖縄世論は呼応関係にあるが、肝心の日本人、日本世論の大半は呼応しているとは言い難い。日本本土で当事者意識をもって呼応しているのは、辺野古新基地建設に反対する沖縄を「反日」と罵るネット右翼とそれに連なる人々と、沖縄の米軍基地を本土に誘致する運動を始めたごく一部の人々である。本土で沖縄の米軍基地を引き取る運動は道理にはかなっているが、実際の政治を動かす力には至らないのが現実と言わざるを得ない。「辺野古」に関しては工事が進んでおり、時間的猶予はない。日本政府をはじめとする本土側の態様が沖縄に基地を封じ込めてきた本質であるという認識を共有した上で、ではどうすれば辺野古の新基地建設を止められるのか、という戦略の構築が不可欠だ、という内容だ。

 そうしたことを踏まえ、私は辺野古の工事を止める具体的手段として「沖縄の米軍のオペレーションに影響を及ぼす事態の創出」を挙げた。辺野古海上やシュワブ・ゲート前での直接的な抗議行動や法的手段に訴えることで、辺野古での工事の進捗を遅らせたり、中止を迫ったりという従来の手法とは別角度からの提案である。

 日本政府が米軍を引き留めている、というのが本質であると沖縄では認識されるようになった。これをより丁寧に見れば、アメリカが日本を「都合よく」利用し、日本が沖縄を「都合よく」利用してきた構図がある。辺野古新基地建設には、もう一方の当事者として「アメリカ」が立ち、日本が軍事的にアメリカに従属しているという現実を直視した上で、アメリカ政府が「辺野古での新基地建設を進めると、沖縄の米軍全体のオペレーションに影響を及ぼしかねない」という認識を抱かせることが不可欠ではないか、と私は考えている。