闇の中、木陰で息を潜めた。ちょうど10年前の6月23日未明、沖縄本島南部の糸満市。沖縄戦最後の激戦地となった丘のふもとは街灯も月光もなく、横にいる同僚の顔すら判別できない。

黎明之塔に参拝する自衛官ら(2005年)

銃を持ち県民の車両をチェックする米兵(2001年)

本土で初のオスプレイ訓練を伝える高知新聞(2013年)

黎明之塔に参拝する自衛官ら(2005年) 銃を持ち県民の車両をチェックする米兵(2001年) 本土で初のオスプレイ訓練を伝える高知新聞(2013年)


 空が白み始めたころ、遠くからたくさんの靴音が響いてきた。「本当に来た」。言葉一つ発しない約100人の行進。制服姿の自衛官が大半だ。恐る恐る、丘の上まで付いていった。


 この日は1945年、日本軍の牛島満司令官が自決し、組織的戦闘が終わったとされる「慰霊の日」。自衛官たちは、牛島司令官らをまつる黎明(れいめい)之塔の前に整列した。鎮魂のラッパが響く中、焼香、献花、敬礼と丁寧な儀式が続いた。


 その前年の2004年から自衛官が集団参拝を始めたという情報があった。だが、張り込んでいた私たちは半信半疑だった。1976年、自衛官1千人が黎明之塔まで深夜行軍し、慰霊祭を挙行。県民の反発を買い、その後は取りやめになった経緯があった。そんな政治的、復古主義的な行動を自衛隊がするものだろうか。


 牛島司令官は首里城(那覇市)地下の総司令部に米軍が迫った5月下旬、すでに敗北は必至だったにもかかわらず、降伏ではなく南部への撤退を選んだ人物だ。南部にはすでに住民多数が避難していた。この決断が、軍人より住民の犠牲が多い沖縄戦の悲劇をつくった。自決する前には徹底抗戦を命じ、部下からも降伏の機会を奪っている。


 県民は戦後、日本軍に強い拒否感を抱いた。それを知るからこそ、自衛隊は日本軍との違いや断絶を強調してきた。時が流れ、牛島司令官に何を誓うのか。集団参拝を再開したのは、後に陸上幕僚長を務める第1混成団(現第15旅団、那覇市)の君塚栄治団長。私たちの問い掛けには応じなかったが、あいさつでこう言った。「沖縄を守るために戦った第32軍を現在の沖縄の防衛を担うわれわれが追悼するのは大切なこと」


 沖縄タイムスにとって、慰霊の日の紙面は報道の原点とも言える特別な紙面だ。この年は集団参拝を大きく取り上げた。「旧軍の後継者として、自衛隊もまた軍隊になるという意思表明だ」と、戦争体験者からの批判も掲載した。ただ、鎮魂の日に制服の自衛官たちを大きく報じることへの批判もあった。その後は淡々と記録することが続き、自衛隊も2014年まで連続で参拝している。もはや「旧軍の血」を隠す必要はなくなった、と判断しているようだ。


 一方で、自衛隊外部の環境も変化に直面している。目前に迫った安保法制の関連法成立で、米軍に「地球の裏側」まで連れて行かれる可能性が出てくる。旧軍のアイデンティティーと、かつて戦った米軍との一体化。「反米」と「親米」の相克が、かつてないほど深まっている。引き裂かれた自衛隊は、どこへ行くのだろうか。

■滑稽な空想の抑止力論 沖縄切り捨ては偽善だ

 1995年、沖縄の米兵3人による暴行事件が起きた。筆舌に尽くしがたい被害の歴史、鬱積(うっせき)した怒りがこの事件を機に噴出し、沖縄は米軍基地撤去の声を上げた。東京で生まれ育った大学生の私はこの時、沖縄に基地があることすら知らずに暮らしていた。沖縄を学ぼうと考えた。


 沖縄タイムスの入社試験を受けた96年、日米両政府は沖縄の基地負担に向き合う象徴として「世界一危険」な普天間飛行場の返還を発表した。引き換えに新基地を造ることの是非を問う名護市民投票は入社1年目の97年にあり、反対が多数を占めた。辺野古新基地建設の混迷の19年は、ほぼそのまま記者生活と重なる。


 もっぱら社会部フリー(「遊軍」のこと。沖縄の新聞社は軍隊用語を使わないようにしている)や名護市にある北部報道部で、基地問題の現場を歩いてきた。安保政策を決める東京やワシントンから遠く離れた沖縄では、机上論の矛盾が顔をのぞかせることがある。


 例えば、抑止力論。政府は辺野古新基地建設が「抑止力を維持する上で唯一の解決策だ」(菅義偉官房長官)と主張する。しかし、抑止力の中身はほとんど検討されない。実は、普天間にヘリ部隊がいないことはよくある。2003年からのイラク戦争では、7割以上のヘリが派遣されて不在だった時期もある。近くの公園の展望台から眺めていれば誰でも分かることだ。それでも、「周辺国」の動きが活発になるようなことはなかった。


 12年の北朝鮮「ミサイル」発射への対処は、滑稽ですらあった。防衛省は破壊措置命令を出した。航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)が出動し、ものものしい移動の様子が報じられた。ところが、沖縄県内の配備先4カ所は、予想される軌道から70~300キロ離れていた。これに対してPAC3の射程は20キロ程度。明らかに届かなかったのだ。これに先立つ09年、官房副長官補として同様の事例に対処した柳沢協二氏は取材に、「政治的パフォーマンス」と断じた。


 安保法制の主役である自衛隊、影の主役である米軍。現場で見てきた経験から、両者の関係がどう変わっていくのかを考えてみたい。


 日米が4月にまとめた新たな日米防衛協力のための指針(ガイドライン)には、「同盟調整メカニズム」が新たに登場した。分かりにくい言葉だが、自衛隊や米軍による常設の共同調整所を指す。平時から一体運用を協議し、共同計画を作る場だ。これこそ指針の核心であり、米国にとって最大の成果だと考えている。


 自衛隊の前身である警察予備隊、そして保安隊の発足当初から、米国は常に米軍司令官が率いる統一司令部の指揮下に入ることを要求してきた。有り体に言えば、「独自の意思を持った軍隊」ではなく、「米軍に全面従属する軍隊」だからこそ、存在を許してきた。


 日本は表向き、その要求に応じてこなかった。だが、1952年と54年の少なくとも2回、当時の吉田茂首相は米大使らに対して統一司令部を置くことと、司令官は米軍から出すことに同意している。日本国民の反発を恐れ、合意は秘密にすることで一致した(古関彰一著「『平和国家』日本の再検討」)。


 共同調整所は、有事には統一司令部の役割を果たす。今回の常設合意とその公表は、吉田元首相の秘密合意をいよいよ大っぴらに実行するという宣言だ。自衛隊を米軍の下請け部隊にする米国の宿願が達成される時が来た。


 戦後日本の安全保障の争点は、米国の軍事力に寄りかかった平和か、占領下で連合国軍総司令部(GHQ)が構想した平和憲法に基づく非武装の平和か、にあった。前者を主張した保守勢力、後者の革新勢力のどちらも、結局は米国の手のひらの上にいた。米国が占領の早い段階で理想を捨てた時、すでに決着は見えていたのかもしれない。

 それでも本土は長い間、非武装をうたった憲法9条を享受し、「必要最小限度」の自衛隊を負担するだけで済んできた。それは、本土の身代わりとして沖縄を米軍統治下に切り離し、重武装させてきたからだ。革新がこの矛盾に向き合い、9条と「重武装沖縄」の距離を縮める努力を続けていれば、現代でも9条は説得力を持ち得ていたかもしれない。