朝日新聞社の月刊誌「Journalism」2013年4月号に、私は「『べき論』の通じない日本社会で」と題した論考を発表した。その続編ともいえる論考を提示したい。内容が一部重複することを、最初におことわりしておく。

辺野古新基地建設に反対するSEALDs(シールズ)の東京行動で登壇者の訴えに聞き入る市民ら=2015年11月14日、東京・新宿駅東口(沖縄タイムス社提供)

菅官房長官(左)と翁長沖縄県知事(沖縄タイムス提供)

ゲート前に座り込む市民を立たせて引き抜く警察官たち=2015年11月4日午前7時1分、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ前(沖縄タイムス提供)

辺野古新基地建設に反対するSEALDs(シールズ)の東京行動で登壇者の訴えに聞き入る市民ら=2015年11月14日、東京・新宿駅東口(沖縄タイムス社提供) 菅官房長官(左)と翁長沖縄県知事(沖縄タイムス提供) ゲート前に座り込む市民を立たせて引き抜く警察官たち=2015年11月4日午前7時1分、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ前(沖縄タイムス提供)

 私が沖縄で基地報道に携わって痛切に感じてきたのは、「こうあるべきだ」という「べき論」の限界だ。沖縄にかかわる問題だけでなく、今の日本社会は「べき論」が説得力を持ち得なくなっている。ことし3月に17年間勤めた沖縄タイムスを退社し、東京で暮らすようになって、ますますその思いを強くしている。

 全国世論も在京のマスメディアも、正当な論理だから優先して対応する、という状況にはなっていない。実現困難な課題は、非現実的な通用しない論理として「聞き流す」態度であしらわれがちだ。これでは現状維持や強者の論理が通りやすいのは必然だろう。今に始まったことではないのかもしれないが、「取り残される者の痛み」は過去にも増して行き場をなくしているように思う。

 沖縄に基地負担が集中する現状が「正しくない」のは自明だ。が、事態はむしろ悪化している。沖縄の民意を切り捨て、沖縄県や名護市と対峙することに寸分の迷いも痛痒も覚えずに、政府は辺野古への新基地建設を進めている。普天間返還で日米合意した橋本政権が普天間代替施設の建設を「地元の頭越しには進めない」と折に触れて約束した言葉は今、紙切れ以下の軽さで宙を舞っている。

 前世紀後期の経済的繁栄によって築いた誇りと自信を失う一方、中国にアジアの覇者の地位を奪われつつある現状に受け入れがたい屈辱と抵抗を感じている日本社会には、20年前にかすかに残っていた余裕はすっかり消え去ってしまった。格差社会で器用に生き残るための競争で、欲望をむき出しにせざるを得ない日本社会の大半を占める「善良」な市民は、辺野古で起きていることに無関心であるばかりか、安倍政権の強権的な姿勢にひそかに喝采を送る面も併せ持つのではないか。政府が強権的であることに「安心」を覚えたり、自分とは無関係の遠い土地の人たちの犠牲が「憂さ晴らし」にすらなっていたりする層も少なくないように感じられるのだ。

 もちろん、本土にも沖縄で起きている問題に心を痛める奇特な人々はいる。東京で「辺野古反対」を訴えるデモを催したり、自分の住んでいる地域で基地を引き取る運動を始めたりする人たちも出てきた。これらが、良識に基づいた真摯な行動であることを否定するつもりはまったくない。だが、こうした本土での運動が、全国世論や政府を動かすに至るとは到底思えない。

 辺野古の新基地建設を止めるにはどうすればいいのか、という命題は別に方途を探る必要がある。政府や本土社会を糾弾するのにとどまらず、「不当だと訴えても事態の改善に向かわないのはなぜか」と考えを進める必要があると思うのだ。

■■■差別を糾弾することの限界■■■

 沖縄から今の状況は「差別だ」という声が飛んでいるが、「差別している側」とされている本土の人はどう受け止めているのだろうか。そもそも矛先が政府だけでなく一般市民にも向いているという自覚すらないのではないか。沖縄からどれだけ「差別だ」と訴えても交わらないのでは、という危惧が私にはある。差別している側は「差別の本質に向き合い、是正すべき」なのだが、こうした論説が今悲しいほどに通らない。

 差別の糾弾は相手の「良心の呵責」に訴える面があるが、それは相手(本土世論)の人格に多少なりの期待があるからだろう。しかし、私の実感としては、口にするのもつらく失礼を承知で強いて言うが、「期待するだけ無駄」なように思われる。

 これまでは、「沖縄の基地負担は全国で分かち合うべきだ」という総論には賛成でも、具体的な基地の移転や受け入れ(各論)となると拒む、というのが本土の一般的な反応だった。しかし今は総論への同意も怪しくなっていないか。尖閣問題の先鋭化や中国の軍事的台頭が日々報じられ、沖縄を「本土防衛の砦」とするのを当然視する世論が醸成されているように映る。

 こうした認識を踏まえ、「差別構造」に対する沖縄内部の憤怒を、沖縄が主体的に主権を取り戻す胎動へ転化させることに私は意義を感じている。といっても、沖縄は現段階で「独立」を志向しているとは言い難い。それが事実である以上、「本土」を糾弾して亀裂を深めていく方向性はおのずと限界と矛盾に突き当たると感じている。

 アメリカ政府がかつて在沖海兵隊の日本本土移転や米本国撤退を提起しても、その都度、日本政府が引き留めてきた事実が次々と明らかになっている。これは沖縄に米軍基地がいまだに集中していることの核心だと私は思っている。「日米同盟が日本の生命線」という考えに固執している日本政府は、沖縄の海兵隊部隊を本土に移転することで反米軍基地運動が本土に広がることを警戒し、本土の人々は自分の住む地域に米軍基地が来ることを忌み嫌っている。その意味で、本土人と日本政府は「共犯」の関係にある。

 であれば、こうした差別の実態を本土への不信や怒り、ましてや期待という次元で消化せずに、冷静にこの構造の本質を見抜いて対応策を検討する必要があると思う。