前回、裁判所は、組体操でタワーやピラミッドを実施すること自体が違法だとするに等しい判決を書いていると指摘した。まず、その法的論理を確認しておこう。

 学校には、児童・生徒の安全を確保する法的な義務(安全配慮義務)がある。タワーやピラミッドには常に崩落の危険が伴う以上、崩落してもけがをしないような特別の対策をしない限り、安全配慮義務を果たしたとはいえない。

 建築現場であれば、足場や命綱を用意することで、安全配慮義務を果たすこともできよう。しかし、組体操の現場では、そうした対策はとれない。よって、巨大組体操の実施は、安全配慮義務違反・違法となる。

■自己犠牲の物語

 さて、法律論としては以上の通りだが、こんなに難しい話をしなくとも、組体操で重大な事故の危険があることは誰にだって分かるはずだ。それにもかかわらず、巨大組体操を続ける学校が少なくないのはなぜだろうか。

 組体操の教育目的・効果としてしばしば強調されるのは、「苦痛をみんなで乗り越えた感動の物語」だ。みんなのために、みんなが我慢すること自体が価値とされ、その自己犠牲が感動を呼ぶ。

 こうした物語から離脱するのは難しい。なぜなら、感動が、そこにある危険や不合理を隠蔽(いんぺい)するからだ。さらに、「みんな」でなければ価値が下がるので、そこから離脱しようとする者はズルいと非難されることになろう。

 こうした構造は、組体操以外でも見られる。いわゆるブラック企業は、「お客さまのため、会社のためにぎりぎりまで頑張る」という感動の物語で労働者を搾取し、「あいつだけ離脱するのはズルい」という嫉妬からパワハラが横行する。

 また、強制加入PTAでは、「子どもたちのため」という物語の下で、存在意義の疑わしい業務が延々と続き、「PTAに参加しないなんてズルい」という論理(というより感情)に基づいて、結社しない自由(憲法21条)を無視し、すべての保護者に活動への参加が強要される。

■あまりに不合理

 しかし、こうした我慢の共有・感動物語は、その「感動」に価値を置かない人から見ればあまりに不合理だ。同じ価値観の下に集まった仲良しグループが感動を共有するのはまったくの自由だ。しかし、学校などの公的な場や、会社などの力関係に格差がある団体においては、感動の強要は許されない。

 感動の呪縛から開放されるには、法という参照点が有効だ。法の支配の下では、自分の価値観をそのまま他者に押し付けることは許されず、法と結びつけることができて初めて、正当性が認められる。

 組体操でいえば、学校は「我慢の共有による感動」という内輪の論理で危険性を隠蔽することは許されない。法の要求する「安全配慮義務を全うしていること」を証明して初めて、組体操実施の正当性を主張できる。

 法は、外部からの客観的な視点と向き合うことを強いることで、多様な価値観を持つ人々の共存を可能にする。危険な組体操がやめられないのは、学校で法の支配が実現していないからに他ならない。学校が児童・生徒の個性を尊重する真の教育の場であるために、法の支配の理念を再確認してほしい。(首都大学東京准教授、憲法学者)(記事と写真の転載、複写を固く禁じます)

※「木村草太の憲法の新手(しんて)」は、本紙第1・3日曜日に掲載。