苛烈な沖縄戦は、沖縄の本、そして出版のための機器や用紙を根こそぎ消滅させた。戦争が終結し、復興の産声が徐々に上がりはじめるも、今度は米軍による抑圧と闘わなければならなかった―。前回は、そうした沖縄戦後初期の出版状況を取り上げた。引き続き、沖縄県産本ネットワーク作成の「沖縄県産本のあゆみ」を紹介していくこととする。
 なお、本稿の出典については第1回の冒頭で詳述しているので参照されたい。

教職員会青年部の発行した『愛唱歌集』

沖縄県史

教職員会青年部の発行した『愛唱歌集』 沖縄県史

権利意識の芽生えと専業出版社の登場

 沖縄では、1950年代後半の島ぐるみ軍用地接収反対闘争を契機に、60年代に入ると沖縄県祖国復帰協議会が結成され、「祖国復帰」「自治権拡大」など、県民の権利意識がしだいに芽生えていくようになる。本土における60年安保改定とも軌機を一つにしながら沖縄問題がクローズアップされ、日本における沖縄の立場などに関する政治・経済的論評が内外で活発化し、沖縄の出版状況にも刺激を与えた。

 さらに、さまざまな方面で盛り上がる抑圧支配に対する抵抗の姿勢は、言論、出版統制にもついに風穴を開けた。61年1月、教職員会青年部の発行した『愛唱歌集』(60年12月発行)は出版許可を受ける以前に配布されたことから、米民政府が布令違反として回収を命じるという事件が発生。これを契機に言論・出版の自由を求める運動が取り組まれていった。

 そういう中で人民党は機関紙の出版を7度申請したにもかかわらず、いずれも琉球政府から拒否されつづけ、裁判闘争に持ち込んだ。そしてついに、61年12月、行政主席の出版不許可は基本的人権の侵害にあたるとの琉球政府裁判所の判決を得て、機関紙『人民』の発行許可を勝ち取った。これをもって米民政府も出版の許可制はその役割を終えたことを認め、65年高等弁務官声明をもって許可制を撤廃し届出制へと移行した。20年にわたり沖縄の出版界を苦しめてきた足かせからようやく解放されたのである。

 出版統制が緩やかになり、経済基盤が整うにつれて、これまで県内出版界をリードしていた新聞社系出版とは一線を画した出版社、沖縄時事出版社(60年)、月刊沖縄社(61年)、那覇出版社(66年)などの書籍や雑誌の刊行だけを目的とした専業の民間会社が沖縄でも登場しはじめた。書店や印刷会社に依存した発行形態、個人に依拠した研究会や自費出版が目立ったこれまでの傾向から、少しずつ脱皮し始めたのである。

●『愛唱歌集』出版に物言い

 「教師たちの職場を明るくし、教育の活力源として口ずさむ」ことのできる健全な歌集をつくろうとの企図のもと、沖縄教職員会編『愛唱歌集』が出版されたのは1960年12月のことであった。同じ月に出版許可を申請、琉球政府を通じて米国民政府に提出された。単に歌集に過ぎないこともあって許可を待たずして、その年の教育研究集会に配布された。ところが61年2月、そのことを米民政府がとがめ回収命令を出したのである。3月の本土国会でも社会党の議員が、歌集を手に「沖縄に言論・出版の自由はない」と発言、本土にまで波紋が広がった。「布令144号(出版物の許可制、法文上は行政主席が権限を握っている)をなくせ」と民主団体や、日本自由人権協会が叫び、61年6月に条件付きで許可となった。米民政府は表向き手続き上の不備を理由としたのであるが、内実は民族独立行動隊の歌や多くの労働歌が、当時の米民政府教育部長のキンカーンを刺激したことは明白であった。

●復帰前の書籍流通事情

 戦後の沖縄で書店の活動が本格化するようになったのは、民間貿易が再開された1950年以降のことである。この頃の貿易は沖縄がドル経済であり、施政権が米国にあっために日本本土ともLCと呼ばれる「外国づきあい」の貿易システムがとられた。LCとは信用状(Letter of credit)のことで、民間輸入業者はこれを銀行に開設することで、貿易に従事することができた。銀行は取引先の輸入業者に自己の信用を提供して、輸出業者の振り出した手形の引き受け支払いを保証するのである。この保証によって輸入側、輸出側双方異存なく取引に従事することができた。しかしさまざまな問題も噴出した。沖縄までの運賃は国鉄の特別運賃規定が適用されないし、沖縄側の書店は海上保険をかけて仕入れなければならなかった。また、売れ残った書籍を返本する際には、逆に輸出の手続きをとらねばならず、通貨の異なる取引は複雑な手続きを要した。そのために、沖縄の書店は大量注文を避け、売れ残りは独自に処分するという方法をとった。また、1ドル360円の固定相場の時代、1ドル300円レートで書籍を販売し、利ざやを輸送費などの高くつく諸経費にあてていた。当然、最終的には読者に割高な買い物を強いることになる。施政権・通貨の違いに離島苦も加わって沖縄側の不利益はなかなか解消できなかった。

●地域誌の歩み

 1960年代初め、本土の地方史編纂の手法である「資料編」の刊行、その資料に基づく歴史検証という実証的な歴史観の構築の流れを受け、沖縄県や那覇市で資料に基づく通史(歴史書)づくりを目指し、「資料編」刊行に重点を置いた編纂計画が立てられた。ことに沖縄では沖縄戦により資料が失われていたため、本土に残された沖縄関係資料の収集が、最重要課題であった。こうした資料を重視する姿勢は、その後の県内市町村史編纂へも受け継がれた。また、これまでの地元有識者など個人の力量に任せて編まれた地域史や打ち上げ花火的な記念誌づくりも見直され、専任の事務局を置き、地元に関する資料収集や地元住民への聞き取り調査等を通して資料編の充実を図り、その地域に根ざした市町村づくりに取り組んでいったのである。この動きの中から資料や情報の共有化を図り、地域史編纂に携わる人々のネットワークを作ることを目的に、1978年沖縄県地域史協議会が設立されるにいたった。

【この時代のおもな書籍】

■『沖縄県史』

 1965年に最初の巻11〈上杉県令関係日誌〉が出版されて以来、77年まで、琉球政府および沖縄県教育委員会によって刊行された沖縄県に関する歴史書。ほかの都道府県の県史とは違って時代を近代にだけ限定していることが、本叢書の一大特徴。当時の資料の存在状況と研究状況を反映している。全24巻。本叢書の刊行がその後の沖縄の歴史研究、特に近代史に及ぼした影響はきわめて大きく、資料編や各論編の執筆を通して、若手の研究者が数多く育っている。

■『人民文化』

 1947年、瀬長亀次郎、兼次佐一らを中心として結成された「人民党」と関わりの深かった月刊誌である。同誌は49年3月に総合雑誌として出版を許可されていたが、発刊後に編集部を人民党が占めるようになり、実質的にも人民党の機関誌となっていた。50年、初の群島知事選挙の立候補者の一人、瀬長亀次郎が、「復興費の行方」と題する論文を発表して、復興費の使途をめぐって、米軍政府の息のかかった保守系の知事候補松岡政保を追及したために米軍政府によって発刊禁止となり、廃刊した。

■『伊波普猷選集』全3巻(伊波普猷著、沖縄タイムス社、1961~62)

 各巻3ドル。当時の学生たちが苦労しながら買い求めた様子は、数々の回想で出てくる。その後、仲原善忠・金城朝永・比嘉春潮など、沖縄の学究たちの全集・選集を沖縄タイムス社は続けて刊行していくことになる。

■『月刊沖縄』(月刊沖縄社、1961~71)

  月刊沖縄社社長の佐久田繁氏を編集発行人とする総合雑誌。政治、経済、社会など内容は多岐にわたるが、「新聞が書けない記事」を掲載することを目的としていたため、暴力団抗争のスクープなど、赤裸々でセンセーショナルな記載も目立った。当時、カラー表紙が珍しかったこともあり、実売部数1万部を超えた号もあったという。発行は10年にわたり、同社創立20周年にはダイジェスト版も発行されたが、第62号で廃刊となった。
【本稿の出典:「沖縄県産本のあゆみ」(C)沖縄県産本ネットワーク】