このコラムでは通常は那覇の街を紹介しているが、今年は戦後70年という事で、それを節目に戦争の体験を伝える語り部が引退したり、慰霊祭などの行事を終えたりする団体が多いとテレビや新聞等で伺い、少しでも記憶の風化を止める手助けになればと考え、自分もガイドを務める「那覇まちま〜い」が開催した今年の夏限定コースの中で戦争体験を伝える「No.63 学芸員・語り部と平和を考える1日」を取材した。

姉の遺品のランドセルの前で想いを語る遺族の外間邦子さん

対馬丸のビデオを見る参加者

対馬丸の模型

犠牲者の遺影に見入る参加者

館内入り口に展示されたランドセル

ランドセルに入っていた遺品

平和への願いを込め合唱する子供たち

海鳴りの塔に立つまちま〜いガイドの仲正児さんと参加者

対馬丸遺族会結成の元となった小桜の塔

姉の遺品のランドセルの前で想いを語る遺族の外間邦子さん 対馬丸のビデオを見る参加者 対馬丸の模型 犠牲者の遺影に見入る参加者 館内入り口に展示されたランドセル ランドセルに入っていた遺品 平和への願いを込め合唱する子供たち 海鳴りの塔に立つまちま〜いガイドの仲正児さんと参加者 対馬丸遺族会結成の元となった小桜の塔


■終戦前の悲劇

 那覇市若狭にある「対馬丸記念館」。対馬丸が米軍による魚雷攻撃を受け、沈没した8月22日に2004年に開館した。一般社団法人那覇市観光協会 那覇まちま〜いが企画する「学芸員・語り部と平和を考える1日」のコースは今年で2年目だが、風化する戦争について学びたいと県内外から参加する人も多い。

 今回の解説は学芸員として勤務し3年目の宇根一麿さん。那覇まちま〜いのこのコースに協力し、今年から解説を担当している。

 「第二次世界大戦末期、敗戦を重ねる日本軍は1944年(昭和19年)7月7日にサイパン島が占領されると、サイパンの次は沖縄だと判断し、軍から要請された政府は沖縄のお年寄りや子供、女性を本土へ8万人、台湾へ2万人の予定で島外へ疎開させる指示を出しました。疎開を進めたのは軍の兵士が多数移駐するので大量の食料が必要となるし、民間人は戦争で足手まといになるため。県は学校単位の集団学童疎開を進めましたが、近隣海域が危険なのを知る親は不安だったそうです。でも、何も知らない子供達は修学旅行気分。本土に行ったら、雪や桜が見れたり汽車にも乗れるはずとはしゃいでいたそうです」と宇根さんが話した。


■深夜の海上にて撃沈、漂流、そして救助まで

 対馬丸は建造から30年以上経つ老朽貨物船。学童疎開に使用する船は軍艦で、護衛艦も一緒と聞いていた親は不安で、直前に子供の乗船を止めたケースもあったそう。学童疎開は小学3年生から6年生までのはずが、中学生も疎開対象として乗船していたそうだ。

 対馬丸は引率教員や0歳児を含む民間人や船員、兵員を含め1788人を乗せ、同じく疎開者を乗せた和浦丸、暁空丸、護衛艦の宇治、蓮の計5隻で船団を組み、1944年8月21日夕方、長崎に向け出航した。

 窓のない船底は兵士を運ぶ目的で大きく2段に分けられ、どの段も満員状態で蒸し風呂のような状態だった。航行速度が遅く、那覇港に到着する前からアメリカの潜水艦「ボーフイィン号」に狙われていた対馬丸は22日の夜、鹿児島県悪石島近辺で魚雷攻撃を受け、わずか11分足らずで沈没した。

 就寝時に乗員には救命胴衣をつけて眠るよう指示があったようだが、乗船者の多くは船倉に残され約8割が犠牲となった。接近していた台風の影響で波も高く、手すりのない甲板から必死に海に飛び込み助かった人もいたが、同行していた護衛艦は他の人々を乗せていた他船を守る為に現場を速やかに離れる必要があり、対馬丸の救助は出来なかった。

 生存者は波の高い真っ暗な海で、生き残ろうと必死にイカダに捕まり漂流した。喉の渇きや幻覚に苦しみ、サメに襲われたり、力尽きた人が海に沈んだりと凄惨な光景を目の当たりにしたが、2、3日後に近くを航海していた漁船や海軍の哨戒艇に救助され鹿児島に運ばれた。中には発見が遅れ1週間近く漂流後、奄美大島の漂着した人もいるそうだ。遺体も数多く流れ着き、浜が「肉の海」となった場所もあるそうだ。対馬丸はいまでも870メートルの深海に遺体と共に沈んだままだ。

 魚雷攻撃を行った米軍のボーフィン号は「真珠湾の復讐者」というあだ名で呼ばれ、現在ではハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に実物が展示されている。

 生存者は救出後に手厚い看護を受けたが、いち早く沈没を知った軍と憲兵により対馬丸の沈没を隠す為の「箝口令」がしかれた。疎開が遅れるのを防ぐのと敗戦へ向かう日本の弱体化を知らせないようにする為だ。厳しく監視されたので、最近まで対馬丸に乗船していたことを家族にも話せないでいた生存者もいるそう。国の正確な調査が行われなかったため、死亡者数の正確な数字は現在でも不明のままだ。


■生き残った者の苦しみ

 生存者の中には「なぜ自分が生き残ってしまったのか。遺族に申し訳ない」という気持ちで沖縄へ戻れず、県外へ移り住んだ人もいた。必死の思いで沖縄県に戻り生活を立て直そうとした人々には「十・十空襲」の惨事が降りかかった。対馬丸撃沈からわずか49日後に那覇市を含む南西諸島一帯は米軍の無差別爆撃にさらされ、飛行場や港湾の軍事施設と都市部が甚大な被害を受けた。

 対馬丸以外で県外に渡った学童疎開の子供達は約2年間ほど疎開していたが、配給される食べ物だけでは少なく、皆で開拓したり、3カ月ほどで帰れると思い夏物しか服がなかったため、冬場はかけはぎで衣服を縫いつくろったり、いじめられたりするなど、いろいろ苦労が多かったようだ。体験者は「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン」(ひもじくて寒くて苦しい)と当時の気持ちを語るそうだ。