安倍首相が、テレビの番組で、集団的自衛権の行使とは、隣のお宅が火事になったときに、町内のみんなで消火を手伝うようなもので、みんなで助け合うことが大事だから集団的自衛権の行使容認が必要なのだ、という趣旨の説明をしたという。

 しかし、この例え話は不適切だ。比喩や例え話は、説明の対象や構造が同じものを持ってこないと成立しない。集団的自衛権は、武力を使って人間を攻撃する権利なのだから、例え話の中でも人間に対する攻撃の話が入っていないとダメだろう。

 ところが、消火活動の相手は、人間ではなく炎だ。それを消し止めるべきなのは、火を見るよりも明らかな自明の事柄である。また、炎の側に大義があったり、人権があったりするわけではない。他方で、武力行使の相手である人間は、それぞれに大義があり、ただの炎とは違う。

 これまで集団的自衛権を行使された側の国としては、北ベトナム、イラク、アフガニスタンなどが挙げられる。それらの国の人々には、それぞれに言い分があった。だからこそ武力紛争は難しいのだ。

 市民の素朴な良心に訴えたい気持ちは分かるが、国際紛争は、「炎を消し止めるべきことと同じくらいに、どちらかが悪いことが明らか」という性質のものではない。過度な単純化は、国際関係のポジショニングで失敗をもたらすだろう。要するに、火事に例えることは、人間と人間との戦いから目をそらすための「逃げ」なのだ。

 これに対し、平然と違憲立法が進む現在の国会の状況は、火事に例えることが適切な状況かもしれない。

 火事の特徴は、最初は小さい炎であったものが、どんどん延焼し、しまいには全てを燃やし尽くしてしまうところにある。憲法9条は、重要な条文ではあるが、憲法全体から見れば、その一部にすぎず、今回の法案もあからさまな侵略戦争正当化法案ではない。それゆえ、現在の状況を、「国家存立の危機だ」とか、「立憲主義の崩壊だ」と記述するのは、大げさに見えるかもしれない。

 しかし、市民が憲法違反を放置すれば、権力の側は、憲法に違反しても大丈夫だと学習する。憲法を平然と破った前例ができることは、憲法を破る心理的抵抗感を弱め、憲法規範の力を縮小させてしまうのだ。

 そうなると何が起きるのか。表現の自由の保障や裁判所の独立など、他の憲法条項の力も縮小するだろう。これは権力にとって好都合なので、政府は、さらに憲法の空文化を押し進める。他方、市民が憲法の力を回復しようとしても、表現の自由などの武器は失われている。憲法規範は、一度空文化されると取り返しがつかないのだ。
 今は憲法9条に小さい炎がくすぶり始めただけかもしれない。しかし、立憲主義の危機は、火事場の炎のように、どんどん延焼していく。だからこそ、多くの人は、「9条を順守しろ」と主張するだけでなく、「立憲主義と法の支配の危機だ」と指摘しているのである。

 憲法を燃やす者たちは、いずれ国をも燃やすだろう。そう考えると、安倍首相の火事の例え話は、かなり不気味である。(首都大学東京准教授、憲法学者)(記事と写真の転載、複写を固く禁じます)

※「木村草太の憲法の新手(しんて)」は、本紙第1・3日曜日に掲載。