先日、中学生と高校生になる私の娘に「いじめ」のことを聞いてみました。陰口やいやみ、ネット上の書きこみなど、彼女達がこれまで遭遇してきた数々のトラブルを語ってくれました。話を聞いていてふと思ったのですが、思春期の子ども達って、「笑い合う(ふざけ合う)」やりとりに満ちあふれていますね。娘の部活の送迎をすると、車中で「何がおかしいの」と思うくらい、友達同士でふざけ合って笑い合っています。


 しかし同時に彼女らにとって「傷つけ合う」やりとりもまた日常なんですね。いつ「いじめ」に発展していくか分からない、ある種の「トゲトゲしたやりとり」の中で日常生活を過ごしているのです。学童期・思春期の子ども達は人間関係やコミュニケーションの能力がまだ未熟で、簡単にトゲトゲしたやりとりになってしまう危うさのなかで生活しているわけです。


 ちなみに、うちの長女は、どちらかというと「闘う」タイプ。先輩だろうが(時には先生だろうが)他人とのトゲトゲしたやりとりに対して、正面切って向かっていくようです。「もっと楽にやろうよ」と諭したくなるのですが、それが彼女にとってのコーピングスタイル(対応方法)なんだろうと思っています。


 一方、次女は、「ごまかして、やり過ごす」タイプ。いろいろチクチクしたことを言われたりやられたりしても、逃げたりごまかしたりして、やり過ごすタイプのようなんです。いずれにしても、彼女たちなりに苦労しながら、不安定な人間関係をなんとか生き抜いているのが分かります。


 考えてみると、私達「大人」も自分なりのやり方で、思春期のトゲトゲしたやりとりをなんとか切り抜けてきた経験があると思うのです。そして多くの「大人」達が、多少トゲトゲしたやりとりを生き抜くことで、コミュニケーション能力を培ってきた、あるいは「人としての強さが身につけた」という自負(経験)を持っているんじゃないだろうかと思うのです。


 そう考えると、いじめに遭遇した子ども達に対する先生や親の言葉が、「もう少しやってみない?」とか「もう少しがんばらない?」という、励ましのメッセージ性を持ったものだというのも不自然ではありません。最近岩手で起きたいじめの事件でも、先生や親はそういう対応だったようです。


 自分自身もがんばって思春期の不安定な仲間関係をなんとか生き抜いてきたのに、目の前にいる子どもが弱音を吐いていると、先生や親の中にはマイナスの感情や、人によっては憤りを感じることさえあるかもしれません。


 そうなってしまうと、いじめに苦しむ子どもの言葉は、いじめの「SOS」としてではなく、「愚痴」や「弱音」として大人に認識されてしまう可能性があるわけです。子どもと大人の間でコミュニケーションのズレが生じているわけです。


 人は自分が支援しなくちゃいけない人に対して、様々な感情を抱くことがあります。ここに紹介したような、陰性感情や時に憤りを感じることさえあるでしょう。コミュニケーションのズレが感情の不調和として表出するのだと思うのです。しかしその感情に従って行動したときに、あまりいい結果は待っていないはずです。もしかすると、岩手の事件のようなケースでは、大人の側に生じた陰性感情そのものが、「SOS」のコミュニケーションの裏返しだった可能性もあるわけです。


 先月ある学会で多文化間精神医学の講義があり、移民の多い欧米は多文化多民族国家を形成していて、医療や福祉、教育など「人」を相手にする仕事では、他文化に対する理解が不可欠だという内容でした。前回このコラム(子ども達の地域支援から見えてくる「実践文化」のちがい)では、他職種や他分野を別の実践「文化」を持つ者として理解することの必要性を紹介しました。


 「他文化理解」のパラダイム(認識の様式、物の見方)は、隠れて見えなくなってしまっている他人の立場を理解することなんだろうと思うのです。私たちが知らず知らずにやり過ごしている、日常に潜む「立場のちがい」に注目することで、その立場に立たされている人の理解がよりスムーズになるということだと思うのです。


 私たちは、日常多くの人と接し多くのことを共有しながら生活をしています。多くのことを共有しているので、つい同じ立場に立っているのだと思ってしまいがちです。確かにそういう側面もあります。しかし夫と妻、親と子、男と女、学生と教員、相談する側と相談される側のように、ちがった立場であるがゆえに出会いがあり、共有の場が存在するという側面もあります。


 時々、相手と共有できている・してもらっているという安心感の中でのやりとりが、コミュニケーションのズレとして作用し始めることがあります。相手に「わかってもらえるはずだ」あるいは「この人にはわかってもらいたい」という気持ちがあるからこそ、ズレ始めたコミュニケーションに対するエネルギーは、どんどん思わぬ方向へ増大していきます。それを受け取る側とのやりとりは、誤解や思い込み、忖度などの形でさらなる立場のズレを深めていくだけのやりとりにに向かっていくわけです。


 私たちの日常生活でのコミュニケーションは、「ちがった」立場の人達との間で、多くの「共有」と「ズレ」を伴いながら展開されていきます。共有がズレへと向かっていったり、逆にズレが共有へと修復されていったりと、カオス的様相を呈しているはずです。「いじめ」も、私達が日常で経験する重層的なコミュニケーションのズレが溜まった中で生じる、「息詰まり」現象の一端なのだろうと思うのです。


 一人の少年が、死を選択せざるをえない状況にいたということは、重く悲しい出来事だと思います。少年とのやりとりの果てに、こういう結果が待っていたとは誰も思っていなかったはずです。いじめに関わった少年達でさえも、予想していなかったはずです。


 機能不全を起こしてしまったコミュニケーションが、想定を越えた結果として表出されることは少なくありません。「子ども達だけの問題」、「学校で起きている問題」というくくりで、誰かに起きた、誰かの事件として認識するだけでいいのでしょうか。自分たちにも起こりうることとして考え続ける必要があると思うのです。