以前ある中学校の先生に、「知名さん、発達障害は神経発達のアンバランスのことで、子ども達の4~5%くらいの発生率っていうさー。でも私たちが子どもの頃はこんなにたくさんは、いなかったよね? どうしてかねー?」と尋ねられました。

統合失調症や、てんかんのように神経学的な要因が強いような疾患・障害の場合、時代や文化の違いは発症率に大きな影響を与えないと言われています。発達障害が純粋に神経(発達)の問題なら、時代が変わっても一定の発症率があったはずなんですよね。

私が大学生だった30年ほど前は、微細脳機能損傷(MBD)という言葉がありました。現在の発達障害に相当する子ども達が事例としては存在していたということのようです。ただし、注目度そしてどこまでをその範囲とするかという点で異なっていた、という話がしばしば聞かれます。また、周産期医療の向上で以前だと死産になっていたようなケースが減った一方、そういうケースの中にこれまでとは違う神経学的な障害として現れているという説もあります。
あるいは、アメリカの精神疾患診断マニュアルであるDSMⅢの改訂の影響が、80年代を経て90年代の日本に影響を与えているという説もあります。そのアメリカでは90年代、アルコール・薬物依存の母親が妊娠出産するケースが注目され、その子どもたちについての発達障害とのdifferential diagnosis(鑑別診断)の難しさが大きなテーマになっていました。

私は昭和37年生まれで、昭和40年代に「子ども時代」を過ごしてきました。戦後の昭和日本の子ども文化ととともに育ってきた世代だと思います。

地図はその頃の私が育った近所を、思い出して描いたものです。「知名」と書いた私の家から、小学校までは、子どもでも歩いて5分以内の超近場。小学校向かいのB商店は文具店兼駄菓子屋(いわゆる「一銭マチヤー」)で、常に子ども達がうじゃうじゃしていました。サンエーやジャスコなどの大型スーパーやコンビニのない時代で、この頃の沖縄は地域の商店・売店で何でも売っていました。私の地域の人たちは、お肉や野菜、ポーク、卵などの食材、そして石けんや蚊取り線香などほとんど全ての生活必需品を、地図にあるA商店で購入していました。近くにはパーマ屋さんや豆腐屋さん、お魚屋さんなどがあり、この辺りは放課後もそれ以外の時でも常に人がいたわけです。

私たち子どもの放課後は現在より少し早く、午後3時半くらいには学校から解放され、校庭で遊ぶか、裏の空き地に行けば誰かがいて遊びが始まるわけです。「学童保育」という言葉も一般に知られていない頃です。塾や習い事に通っている子どもは限られていて、私たちはぶらぶらと遊び歩くという放課後を過ごしていたように思います。

数年前、当時小学生だった私の娘達がお友達と電話でアポとりをしてから遊びに出かけるのを見て、「遊びに行く」という行為も変わったなと思いました。現在ほんどの子ども達が、公文や学研、水泳にダンスなど、何らかの放課後活動で忙しくしています。私たちの頃のような「ブラブラ型」ではなく、予定を入れる(スケジュール型の)「構造化された」放課後を過ごしているようです。多様な放課後活動(産業)は、良い悪いは別として、子ども達の生活を変えたと思います。

遊びそのものにも違いがあります。ゲーム機がない時代なので、外で何かしないと家の中には刺激のない時代です。私たちの子ども時代の遊びの定番は、ビー玉です。ビー玉をするには、地面に小さな穴を5つ掘らなければなりません。アスファルトやコンクリートの場所ではできない遊びです。うちのお隣の仲宗根さん宅玄関前の駐車スペースが、近くのガキどものビー玉場でした。なので仲宗根さんちには常に直径3~4センチほどのビー玉穴が、あっちこっちにあるわけです。他人の家に穴を掘ってビー玉をするって今の時代では考えられない行為ですよね。

前の段落で子ども達の放課後が「構造化」されていると書きましたが、時代とともに近隣関係も構造化・厳格化されてきているのかもしれません。そもそも今では、アスファルトやコンクリートが敷かれていないスペースが少ないというのもあります。他にも、道ばたでパッチー(メンコの類)をしたり、ボール遊びしたり。「道」という空間は、車、子ども、通行人の共有スペースだったわけで、さぞかし当時の大人達は、子どもに気を遣いながら車を運転していたのだろうと思うのです

近所にまさる君(以下すべて仮名)という同年代の男の子がいました。私を含む近所の子ども達は、「学校」や「あき地」、あるいは「やま」(※「ウーシーモー」と呼んでいましたが)で近所の子ども達と遊んでいました。まさる君は、日常的に私たちとつるんで遊ぶことはなく、常連の遊び仲間っていうわけではなかったのです。彼は私たちの活動エリアを超越した、広い地域をカバーして遊びを展開していたのです。私たちが「スズメ」だとすると、彼は「鷹」のような存在でした。

夏休みのある日、まさる君に「たかしー、いろんなフルーツが食べ放題のところ(畑)があるから一緒に行かないか-」と誘われて、一緒に出かけました。私の知っているエリアを越え、足を踏み入れたことのない地域に入り、他人の家の裏や山の中を抜けながらどんどん進んでいきます。暑い夏の日、のどが渇きます。現在のようにコンビニやショッピングセンターがあって、クーラーや冷水器があっちこっちにあるわけではありません。彼はあたかも自分の隣近所かのように、銀行や郵便局を探し当て、そこの冷水器でお水をごちそうになりながら、結構な道のりを歩いた記憶があります。

どこを歩いているのかわからない私にとって、彼だけが唯一の道しるべです。不安な私は、彼とはぐれないように歩いていきました。彼との小旅行から戻ってきたのは夕方でした。1日中お昼も食べずに歩き続けたおかげで、お腹はすくし、へとへとに疲れてしまいました(※彼の言った「フルーツ食べ放題」は大したことありませんでした)。しかしまさる君にとっては、それが日常に近い遊び方だったようなのです。

まさる君は結構なエネルギーの持ち主だったと思います。近所で一緒に遊んでいても、動きも気性も激しいし、遊びの中で時々トラブルになることもありました。

数十年前のまさる君のことを思い出したのは、ワタル君という小学生の男の子の支援をしている時でした。ワタル君は学校でも自宅でもじっとしていられなくて、土日になると自宅からかなり離れたショッピングセンターで遊んでいたり、問題を起こしたりしていました。お母さん達もたいへん苦労されていました。とにかくエネルギーがあり余っているっていう感じの男の子で、小さい頃のまさる君にそっくりだと思ったのです。過剰なエネルギーを消費することで、自分のバランスをとっているという点が、この2人に共通しているように思えたのです。

ただ、2人は生きた時代と環境が違う。まさる君の時代は、いろんな地域の空き地やらでうじゃうじゃと遊んでいる子ども達と、広く浅いつき合いをしながら、放浪型の遊び方ができる環境があった。ワタル君の場合は、近所で遊んでいる子どもそのものが少ない。それにゲームセンターやショッピングセンターがある時代で、そこではクーラーが効いていて冷水器もある。試食コーナーでちょっとしたお食事もいただける。炎天下でさまよい遊ぶまさる君と、ワタル君では、物理的な消費エネルギーが違っているのではないかと思うのです。先に述べたように、エネルギーを消費することで、自己コントロールをしていたと思われるこの2人にとって、このエネルギー消費を受け入れる環境の違いが、彼らの行動に影響を与えたと思うのです。

このエッセーの冒頭で紹介した「昔は発達障害こんなにたくさんいなかったのにねー」という問いに対して、子ども達の物理的環境の変化を考えずにいられないのです。発達障害が、すべて子どもの過剰なエネルギーが原因ということではありません。神経学的側面が、環境との兼ね合いで問題化するならば、環境の変化に対する認識を持つ必要があるのかもしれません。決して「昔がよかった」っていう話ではありません。昔と今の変化を認識することで、これから何をしていくかということを、考える必要があるのではないかということです。

私が地図に描いた商店街は、郊外の大型スーパーの登場とともに姿を消しました。空き地は住宅地に変わり、「やま」は公園に変わりました。放課後活動産業とゲーム機のおかげで、子ども達は「道」や「やま」で遊ぶ必要も時間も以前ほどなくなりました。この地域を囲むようにインフラ整備で道がきれいになり、大人の運転する車の速度が格段に上がりました(車の性能が上がったこともあるでしょう)。以前なら子ども達が群れて遊んでいたような場所を、当時とは比べものにならないスピードで走り抜けていきます。危なくて小さな子ども1人では道を歩かせられない、という認識を持つのは当然だと思います。
「お外」は以前よりも、子どもの空間ではなくなりつつあるように思うのです。子ども達と社会が彼らに許した「空間」の関係は、「発達障害」という現象を含めた彼ら(子ども達)の在り方に大きく影響しているではないかと考えるのです。