前回、表現は、私たちの生活を豊かにする、社会への贈与だ。だから、表現が萎縮しないように、手厚く保護しなければならない、と述べた。これを前提にすると、「悪い表現は守る価値がなく、もっと規制すべきだ」と考える人もいるだろう。
 例えば、フランスの風刺週刊紙「シャルリエブド」のテロ事件を思い出してほしい。多くの人は、テロリストに憤りを感じただろう。と同時に、問題の風刺漫画は、あまりにもムスリムに失礼だと感じた人も少なくなかったのではないか。テロは問題外にしても、なぜ、あのような下品な言論が、表現の自由として保護されなければならないのだろうか。

■ヘイトスピーチ

 国内でも、ヘイトスピーチと呼ばれる悪質な言論が深刻な問題となり、それを取り締まる法整備が検討されている。常識的にみて、何の根拠もなく外国人を差別・罵倒するヘイトスピーチを保護すべきとは、到底思えない。
 また、その矛先が向けられるのは、外国人だけではない。2013年1月、沖縄県の41市町村の代表が東京に集い、政府に対して、オスプレイ配備や新基地建設に関する政府の強引な手法に抗議するデモ行進をした。このとき、「売国奴」などと聞くに堪えない罵倒を投げかける集団が登場したという。
 このデモ行進は、政府に公平・適切な扱いを求めただけだ。そんなデモをも「売国奴」と罵倒するヘイトスピーチは、日本人を含む全人類を見境なく攻撃対象にする、大きな脅威だ。もはや表現の自由として保護すべき価値はない。刑罰を科して取り締まるべきではないのか。
 こうした声に対し、「表現の自由なんだから、文句を言うな。黙れ」と、単純な議論をする者もいる(表現の自由を盾に、相手に黙れというのは奇妙だが)。しかし、憲法は、洗練された法だ。表現の自由にも限界があると、一般には考えられている。
 では、その境界線はどこで引かれるのか。大ざっぱに言えば、「特定個人の具体的被害」が生じた場合には、表現は規制される。つまり、名誉毀損(きそん)、土地所有権の侵害、業務妨害などに当たるならば、表現であっても、刑罰や損害賠償の対象となる。
 店や事務所の前、あるいは正当なデモ行進者に対して、過度な罵声を浴びせる行為は、侮辱罪や業務妨害罪になることも多いだろう。

■警察にじかに問う

 悪質なヘイトスピーチが放置される原因は、それを罰する法律がないことにではなく、政府がそれを十分に取り締まらないことにある。だとすれば、新しい法律を作っても問題が解決するとは限らない。今必要なのは、政府に、適切な取り締まりを求めることだろう。もっとも、闇雲に取り締まりを強化すれば、保護すべき表現までも萎縮する危険がある。
 こうした困難を打開するために、例えば、警察署と市民が参加するシンポジウムを開催して、「なぜ取り締まらないのか」を警察にじかに問うてみてはどうか。表現を規制する新法が本当に必要かは、そうしたチャレンジをしてから考えればよいと思う。
 自由な表現を可能にする環境作りには、警察と市民との間の相互不信を解消し、対話の努力を重ねることも重要だろう。(首都大学東京准教授、憲法学者)(2015年3月1日付沖縄タイムス総合面から転載)
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※「木村草太の憲法の新手(しんて)」は、本紙第1・3日曜日に掲載。