1月26日、奥平康弘先生が亡くなった。先生は、「表現の自由」研究の権威だ。理論的に緻密でありながら、温かく繊細な人間性を併せ持つ先生の研究は、憲法学の模範だった。奥平先生が常に強調したのは、「表現の自由は、個人のエゴの表出のためではなく、社会を良くするためにある」ということだ。
 私たちは、報道、評論、小説、音楽、絵画など、多様な表現に触れることで、新たな事実を知り、自分なりの判断基準を形成していく。そうして形成された価値判断に基づき、より良い何かを求めて生きていくことで、人生は豊かになる。
 そういう意味で、表現は、社会全体への「贈り物」なのだ。だからこそ、国家もそれを保障しなければならない。

■取引でなく贈与


 しかし、その大切な表現の自由は、とても「萎縮しやすい」ものだとされる。なぜ萎縮しやすいのだろうか。
 その理由は、「商業広告への規制は許容されやすい」とする、憲法教科書の解説を読むとよく分かる。そこには、商業広告も表現の一種ではあるが、「経済的な利得が絡む場合には、萎縮の危険は低い」ことを理由に、通常の表現行為よりも保護の程度が低い、と書いてある。
 逆に言えば、「通常の表現行為は、経済的な利得にならないから、萎縮の危険が高い」ということだ。作家や音楽家として生計を立てている人はごくまれだ。普通の人が脱原発デモに参加したところで、お金がもらえるわけでも、自分の商売にプラスになるわけでもない。彼らの表現は、「取引」ではなく、社会に対する無償の「贈与」なのだ。
 このことは、テレビや新聞などのマスメディアの報道には当てはまらないようにも思える。彼らは営利企業であり、その報道も商業活動の一種だからだ。
 しかし、マスメディアは、何を報じるかを選ぶことができる。例えば、辺野古新基地建設の問題に全く触れずに新聞紙面を作ることは、とても簡単だ。実際、そうしている新聞社もたくさんある。
 ということは、マスメディアだって、あるテーマについての報道をやめたからといって、経済的に損をするわけではない。プロのメディア報道にも、社会に対する無償の贈与の側面があるのだ。
 このように、表現行為は、無償の贈与だ。見返りはないのだから、表現をやめるのはとても簡単だ。サラリーマンが会社を辞めるときのような覚悟はいらない。

■無言電話や罵倒


 また、表現をやめさせるのも簡単だ。刑罰や暴力を使って脅せば、たいていの人は黙る。いや、実際には、暴力的な方法などいらない。相手に「面倒くさいな」と思わせられれば、黙らせるには十分だ。無言電話、公道からの罵倒、インターネットでの悪口など、犯罪にならない程度の嫌がらせの方法はいくらでもある。
 そうすると、表現の自由を、本当の意味で保障するには、刑罰や暴力による「脅しがないこと」だけでは足りない。表現をする人が、「面倒くさい」と感じない環境をつくることが不可欠だ。
 表現の自由は、私たちの生活の豊かさの源だ。表現の自由を、社会への贈与の仕組みを守るために、私たちは「面倒くささ」に立ち向かわねばならない。(首都大学東京准教授、憲法学者)(2015年2月15日付沖縄タイムス総合面から転載)
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※「木村草太の憲法の新手(しんて)」は、本紙第1・3日曜日に掲載。