学校の先生方や保護者の方々から、「診断名・障害名を伝えるべきか」という相談をうけることがあります。学校の場合だと圧倒的にクラスの子どもたちに伝えていいか、というものです。

 例えば、小学校3年生のクラスを担当しているみなこ先生(以下すべて仮名)は、ADHD(注意欠陥・多動症)と診断されているまさる君とお昼の休み時間に二人でオセロをするようにしています。まさる君は、多動が著しく指示の通りにくいところがあり、クラスでも浮いた存在になっています。オセロを始めた頃から、まさる君はみなこ先生と「関係性」ができはじめ、これまでのような突拍子もない・コントロール不能な行動を起こすことがかなり少なくなってきました。ある日、クラスの子ども達数名がみなこ先生に、「どうして先生は、まさる君を特別扱いするの…」という疑問を投げかけてきます。みなこ先生は、まさる君がADHDだということを子ども達に説明すべきかどうか迷ってしまったわけです。

 以前同じような状況で、保護者の了解のうえで、子どもの発達障害のことをクラスで説明したケースがいくつかありました。そのなかで、「○○は伝染病だ」とか「○○はADHD/アスペルガーだよな、病気だよな」というセリフが子ども達から聞かれ、こちらが伝えたいことがうまく伝わっていない結果になったことがありました。おそらく現場でこういう子ども達の勘違いを目の当たりにされた方も少なくないはずです。

みなこ先生は、疑問をつきつけてきた子ども達に「説明する」(伝える)かわりに「尋ねる」ことを始めました。
先生:「みんなは、先生が、まさる君にひいきしてる感じがするの?」
子ども達:「45分の休み時間にオセロやってるって、まさるが自慢してたよ」
先生:「どうして、先生はまさる君とオセロやってると思う? 当ててみてよ」
子ども達:「えーっ、わからん」
先生:「じゃぁ、みんなからするとまさる君ってどんな子ね?」
子ども達:「あー、あれさー、うるさいよ」
先生:「どんな、『うるさい』なの?」
子ども達:「授業の時席離れるし、意味ないのに走ったりするし、すぐ怒るし」
先生:「それは、みんな困ってるの?」
子ども達:「はぁ、でーじ(とても)困ってるさ-」
先生:「どうして、まさる君は授業中うるさくなっちゃったりするのかな?」
子ども達:「んーっ、授業わからんからじゃない」「まさる、幼稚園の頃から落ち着かなかったよ。昔はもっとすごかったよ」
先生:「先生はね、先月の運動会の後からまさる君とオセロやってるわけ。オセロやると、まさる君少し落ち着くってわかったわけよ。さっきの時間、まさる君席立たなかったんじゃない?」
子ども達「…だね。相変わらずしゃべるけど、席は立たない」
先生「でしょ。少しずつだけど、落ち着くようになってるし、まさる君もがんばってるわけ」
子ども達「あーはー、それでか。あいつ最近、オセロの自慢して、でーじ(とても)機嫌いいから、あまり怒らないよ・・・」

 みなこ先生ほどうまくいくことは少ないかもしれませんが、これをひとつの基本形だと考えてみましょう。基本形は尋ねられた時には「説明する・伝える」前に、まずは答えを求めている本人達がある種の答えを持っていないか「尋ねる」わけです。しばしば子ども達は既に自分の言葉で「診断名」を持っているということです。まさる君の例では「うるさい」「席離れる」「走る」「怒る」等々・・・、彼らがいつも見ている具体的な行動が彼らにとっての診断名です。ここで「ADHD(という医学的診断)があるからオセロをやってるのよ」という説明をするよりも、子ども達自身がもっている診断名を活用してみるわけです。「まさる君ってどんな子ね?」という質問で彼らの「診断」を引き出し、それに対してオセロをやっているのですという説明にもっていく「やりとり」を展開していったわけです。

 子ども達の中からまさる君のような子の行動を「自己チューだから」とか「甘いから」とか、行動に対してマイナスの解釈が出てくる可能性もあります。子ども達に医学的診断を説明することで、マイナスの解釈や感情が中和される可能性もありますが、逆にさらなるマイナスを生み出す可能性もあるようです。それに通常このような状況で求められるのは、解釈の方向性よりも解決策だと考えると、とりあえずの(解決への)試みに同意してもらうようなやりとりをつくっていく方が得策のようにも思えます。

 子ども達は毎日自分のクラスメートと生活しているわけです。大人が思うよりも、子ども達自身がお互いのことを知っていることは不自然ではありません。行動が激しい子どもになるほど、他の子ども達は日常の経験から、その子への支援の必要性をわかっていることも少なくないようです。したがって、「診断を伝える」ということの基本形は、周りの子ども達自身が日常の経験から構築された「診断名」を引き出しながら、彼らがまさる君のような子どもにどういうまなざしを向けているかを確認することが基本になるのではないかと思うのです。彼ら自身の「診断名」は、彼ら自身がその子どもと生活をともにするにあたっての「困り感」と重複することも少なくありません。もちろん、すべてこの基本形通りにいかないかもしれませんが、試してみる価値はあると思うのです。

 周囲ではなく本人に「診断名を伝えるべきか?」という問いに対しても、同じく「説明」よりも先に「尋ねる」ことから始めるとどうでしょうか。本人が自分のことをどう思っているか、困り感やつまずき感があるのか、それらの困り感・つまずき感をどのようにとらえているか・・・、こういうことが「診断」を理解する際のベースになるように思うのです。友達とうまくいかない、先生や上司とトラブルになる、仕事がうまくいかないなどの生活上の困り感。しかし本人が困り感・つまずき感を持っていても、それが親、先生、上司など「他人のせい」になっている限りは、(自分に対する)「診断」に納得するのは難しい可能性が高いはずです。

 「診断」は「自分についての困りごと」に名前をつけたものと考えると、自分についての「困り」のないところには、「診断」が成立しにくいことになるのでしょう。これは心理検査でも何でも言えると思うのですが、「伝える」という行為は、伝えられる側の準備性ができていなければ、伝わるべきものが伝わらないと思うのです。伝える前に尋ねるというのは、伝えられる側の準備性を確認するという(情報共有前アセスメント)作業だと考えていいのではないでしょうか。

 冒頭のみなこ先生は、結局クラスの子ども達みんなでオセロ大会をしました。まさる君もクラスのみんなとオセロを楽しみました。「勝ち負け」のあるゲームを、喧嘩や騒動なしにまさる君が楽しめたというのは、彼の大きな前進だったとみなこ先生は思いました。負けても楽しいと思える、成長の証が見えた一時だったようです。