前回のコラム(http://www.okinawatimes.co.jp/cross/index.php?id=188)では、発達障害の診断が、1)「子どものとらえ方の変化」→「対応の試行錯誤」→「新たなる発見」→「新たなる対応」という循環をつくり出すということ、2)内科の病気とちがって、問題への「対応・対処」は生活をともにしている人たち自らの試行錯誤が大切になるということ-を書きました。学校現場での発達障害の子どもたちへの対応は、本来「診断」がなくても模索されることが望ましいのではないかという、「教育の医療化」への批判についても触れました。

 発達障害の「診断」に伴ってしばしば起きることのひとつが「自責の苦悩からの解放」です。様々なマイナス行動をしてしまう我が子を目の当たりにして、親は自らの子育てをめぐる自責の念に苦しんでいることが少なくありません。他の子と同じことができないだけならまだしも、他の子に危害を加えたり、クラスの授業を邪魔したりするような行動のために学校に呼び出されることで、親としての自己評価が低下してしまうわけです。本来なら自分の一番の子育てのサポーターになるはずの、実家の両親や同じくらいの子どもを持つ兄弟からも、「あんたもう少し〇〇〇したほうがいいんじゃない」という月並みなアドバイスに遭遇して、責められているような感情に苛まれる人も少なくありません。子どもの問題行動・不適応行動は、親にとっては即自分の問題として考えてしまうものなのです。

 発達障害という診断とともに、「子育ての問題ではなく、神経発達の問題」という説明(ストーリー)が提供されます。子どもの問題の原因が、「親である私の問題」から、「(神経発達という)私ではどうにもならない問題」へと変化するわけです。そして自分(の子育て)を責める感情から、徐々に解放されていくわけです。既に成人した発達障害者当事者の場合は、自分の診断を告げられることで、これまでの人生の様々な失敗や行き詰まりを、「発達障害が理由だったのか・・・」と振り返るようです。

 発達障害児を持つ親にしても、成人の発達障害者にしても、自らを「ダメだ」と思う思考・感情から解放されることになるわけです。このように人生の困りの原因を自分の外の「何か」に対して求めていくような認識のありかたを、「外在化」と言ったりします。自責の念(自分を責める認識)から解放されることで、うまくいかないことの原因をクヨクヨ考えるのではなく、解決にエネルギーを注ぐことにより、人生が建設的に向かうことは多いようです。しかし、精神科医の香山リカ先生のように、発達障害をめぐるこのような「解放・免責」に反対する意見を持つ人もいます。一方、発達障害に関して多くの研究や実践を行ってきた精神科医の田中康雄先生は、支援を前提としない診断は注意すべきだとも言っています(「診断は戦略的であるべき」と言っています)。

 私は「診断」や「心理検査」の共有をする(=説明する)際には、同席する家族・学校の方々と、どういういきさつで受診や相談することになったのかという話から始めるようにしています。多くの場合家庭や学校での問題行動を共有することになります。そうすることで、日常のどういう「困った行動」が「○○障害」=「診断」に相当するのかについて共通認識を持つことが第一段階だと思っています。そういう「困っていること(行動・やりとり)」に対して、とりあえずどういう「対応」が可能で、それを誰がどんなふうに「試してみて」、どのくらいの期間「観察して」、どの時期に結果を「確認する」か話し合うようにします。診断や検査結果だけを告げられるだけで、一番大切な「一緒に考える」という部分の支援をしなければ、生活をともにする人たちにとっては「診断への戸惑い」というもうひとつの困りごとが出てくる可能性もあるようです。

 そのように考えると、「診断」が「支援の切符」の機能を果たしているとも考えられます。単に特別支援教育や福祉サービスなどへの「切符」という意味もありますが、周りの人たちの対応の工夫・配慮という意味も含めてです。前回のコラムのツトム君のように、診断を機に先生や保護者が「困った子ども」という見方から「支援が必要とされる子ども」へと変化することについて指摘しました。その見方・視点は、学校あるいは関係者全体で共有され、「支援」や「配慮」という共通目標のもと動いていけるための「チームワーク」がつくられていくわけです。周りのみんなで共通理解・工夫を始めることで、子どもと日常生活で接する大人(=親や先生)の支援につながり、結果として子どもの支援にもつながるということだと思います。支援に必要なチームワークづくりが円滑になるため、子ども達とかかわりの多い(学校)現場では、「診断」を求めたり、あるいは「あの子はLD(学習障害)っぽいからみんなで対応に工夫していきましょう」といったような「プチ診断的」なやりとりで、「共通理解」を進めていくということになるのだと思います。

 しかし本当に「診断」はいいことだけなのでしょうか? 実はとても変な話だと思うのですが、「診断」って信じるか・信じないか(納得するか・しないか)っていうような部分があるように私には思えるのです。あまり信じすぎて、「診断」を万能化(これで大丈夫感を持つこと)してしまうと、思ってもみない展開になったりすると思うのです。

 例えば、あるお母さんが問題行動著しい息子を連れ、医療機関に何度か受診しました。お医者さんに「発達障害」の診断を説明され、自らの子育ての責任論・原因論からわずかながら解放され、今後の取り組みに希望を持って自宅に戻って行きます。さっそくお父さんである夫にそのことを話すのですが、お父さんの「自分の子どもを障害者にするつもりか? それでも母親か!」という言葉に出くわす例は少なくありません。学校現場の例だと、職員会議で特別支援教育コーディネーターの先生が、ある生徒の発達障害について説明し教職員からの支援・対応についての理解を求めるわけです。すると、教職員の中から「最近の医者は誰でも診断つける」「これじゃ、成績悪いのは全部病気になる」などと異論が出たりして、先ほど指摘した「支援のためのチームづくり」とはほど遠い状況になってしまうことがあるのです。この時、コーディネーターの先生(最初の例ではお母さん)の「診断」に対する「信心」が強ければ強いほど、それを受けつけない同僚(父親)への失望や時には怒りも強くなり、結局チームとしてあるべき集団(教職員・家族)が分裂状態に陥ってしまうことさえあるわけです。

 前回のコラムでも指摘しましたが、「診断」も「検査結果」もこの分野に関しては「仮説」のひとつくらいに考えた方がいいのではないかと思います。信じる(納得する)人もいれば、そうでない人もいる。結局、子どもも大人も「障害(名)」で困っているのではなく、日常の子どもの行動、もっといえばその子どもと周囲とのやりとりの悪循環に困っているはずです。朝ぐずった揚げ句に叫ぶ、給食のおかわりが一番でないと怒って給食のお鍋に唾を吐きかける、前の子の髪を引っ張る・・・など。具体的な日常の行動とやりとりに、本人も周囲も翻弄されているはずです。

 診断は大切な側面もありますが、それにこだわりすぎて支援を行き詰まらせるよりは、困っている行動をどうしようか、何から試していこうか、誰がどんな役割を担って試行錯誤していこうかということへの共通理解の方がより大切なんだろうと思うのです。


 

ひきこもりに関するシンポと全国大会のお知らせ


シンポジウム形式の県民講座「ひきこもりって何?!~ひきこもる若者たちとともに~」が2月20日(金)午後6時30分から、那覇市西の沖縄男女共同参画センターてぃるるで開催されます。FM沖縄のパーソナリティ西向幸三さんをスペシャルシンポジストとしてお招きし、家族そして支援者でひきこもる若者達の現状を共有しつつ、参加者で考えていこうという企画です。参加費は無料です。
さらに県民講座の翌日からは、「第10回全国若者・ひきこもり協同実践交流会inおきなわ」が同じく、てぃるるで開催されます。ひきこもりの問題だけではなく、不登校や発達障害、貧困など子ども達をとりまく問題について、当事者・家族を含めた参加者全員で検討していこうという全国大会です。21日午前9時30分の開会式に続いて、10時からオープニングシンポジウム、午後1時~5時のテーマ別交流会、そして翌22日午前9時~10時30分はテーマ別交流会に加えて、支援者養成講座、そして家族や当事者による特別交流会が企画されています。その後、午後零時30分までにクロージングシンポジウムを行い、全日程を終了する予定です。内容の濃い企画が揃っていますので、関心のある方々は是非ご参加ください。
参加申し込みと詳細については、大会HP(http://okihikishien.it-laboratory.jp/)でご確認ください。昨年の大阪大会に引き続き、県内外から多くの参加者を見込んでいます。早めに参加手続きしていただくことをお勧めいたします。