先日ある発達障害を扱った雑誌に、公立学校の先生が執筆された、「教育の医療化」というテーマのコラムを見つけました。現場教員を含めた教育関係者が、「医療の言葉と物さし」で子どもを見ていて、人としての子どもを見る視点が乏しくなっていることへの警鐘ともいえるような内容でした。発達障害という言葉と概念が学校現場に定着するにつれて、その傾向が強くなっているということです。昨年、精神保健福祉士の研修会で発達障害について講話をした際には、教員としての勤務歴のある参加者から、「知名さん、学校現場にこれだけ診断を広めた『犯人』はいったい誰なんですか?」と尋ねられました。

 私が本格的に発達障害の子どもたちの支援に関わり始めた2000年初め頃は、「発達障害」という言葉は教育の中ではほとんど知られておらず、「学級崩壊」という言葉が流行語大賞に選ばれた頃でした。教室では、「とにかく難しい子どもたち」「手に負えない子どもたち」が増えていて、その対応に追われているという現状があったように記憶しています。それと比例するように、2000年あたりからうつ病など精神疾患で休職する教職員数が急増しています。「どう理解・対応していいかわからない」ような子どもたちが増える状況で、「診断」に象徴される医療の視点が、当時の教育にそれまでとは違った子どものとらえ方を提供したのだと思っています。それが先ほどの方が尋ねられた「犯人」に相当することなのだろうと思うのです。

 「診断」というのは本来困っていることや問題(症状に相当する)を整理して、それに名前をつけたものです。その「名前」(=診断名)をもった人や子どもの「特徴」の把握がしやすくなり、「見通し」を持った対応が組み立てやすくなるというものです。日常的に発達障害の子ども達と接する学校では、「診断」が出ることで彼らの迷惑行為や問題行動を客観的に見ることができ、感情的にならず冷静に対応できるようになるわけです。

 発達障害のことが学校現場に浸透していない頃の話です。小学校2年生にしては体格のいいツトム君(以下、名前はすべて仮名)は、「ジャイアン」を思わせる学校では有名な「乱暴者」でした。いつも、「おい、お前○○○しろ」とか「あいつの○○○使わせろ」なんていうのを大きな声で言うので、同級生からは怖がられ、彼のことをよく知らない子ども達とはトラブルになり、時には先生ともトラブルになることさえありました。担任の先生や学校全体が彼の行動には困っていました。もしやと思い、お母さんにお願いして心理検査を受けに行ってもらうと、言葉の能力を示す値がかなり低いことがわかりました。全体的な知能指数の低さからすると軽度の知的障害と判断されてもいい境界ライン。言葉の能力だけが著しく劣っているところからすると学習障害の疑いがありました。

 彼の行動に困っていた担任のたか子先生とそのことを共有しました。その後先生は、なるべくツトム君と雑談をするようにすると、ツトム君が他の子ども達を「あいつ」とか「こいつ」と呼ぶのに気づいたのです。子ども達の名前を尋ねてみると驚いたことに、彼はクラスの子ども達の名前をほとんどわかっていなかったのです。そのかわり、「サッカーうまいやつ」とか「カードたくさん持ってるやつ」とか「ダンスやってるやつ」とかっていう伝え方をしてきたのです。たか子先生は、「確かに、言葉の問題あるかもしれない。国語ができないのは、授業中落ち着いてないからではなくて、国語の授業がわからないから落ち着いてないのかもしれない」と、これまでの考え方を逆さまにしてとらえるようにすると、ツトム君のことがわかりやすくなったということでした。これは当時の教育現場ではあまり見られなかった「視点の転換」でした。たか子先生も「心理検査で子どものいろんなヒントがもらえるんですね」と話していたのを覚えています。

 たか子先生はもうひとつツトム君についての発見がありました。ツトム君は、だいすけ君のことを「サッカーがうまいやつ」、かなみちゃんのことを「ダンスできるやつ」という彼なりの名前でしかお友達を覚えていません。たか子先生がツトム君の発する名前を注意深くきいていると、みんなのプラスの特徴を名前にしたものだったのです。たか子先生はツトム君が、だいすけ君のことを「サッカー」、かなみちゃんのことは「ダンス」のように、みんなの「いいところ」をニックネームにするのが得意だということをクラスの子どもたちと共有しました。するとそれぞれのいいところをニックネームにするのが、このクラスの文化になっていったのです。それはツトム君にとってはとても嬉しいことでした。彼の言っていることがみんなに通じるようになるし、自分のやり方が他の人のやり方になるし、親分気質の強い彼の自己評価をあげてくれるものでした。これまで怖がって近寄らなかった子ども達も、少しずつツトム君との接触が増えてきました。

 「発見」は先生だけのものでもありませんでした。ある日の休み時間クラスメートのよっちゃんに、「宿題書け、宿題書け」と言っているツトム君の前を、たか子先生が通りかかりました。身体の小さいよっちゃんに脅しをかけていると思った先生は、「ツトム君、そういう命令しちゃいけないでしょ」と言いました。すると、よっちゃんが、「先生、ツトム君、宿題教えてって言ってるんだよ」と。「書け」というのは「教えて」という意味で、「使わせろ」は「貸してください」などと、さまざまな「ツトム語」があることを、子ども達は彼との接触からわかっていたようです。もちろんその後、たか子先生はツトム君の日本語矯正に乗り出したわけです。あれから10年ほどたちますが、ツトム君は今年高校を卒業して大学生になっています。

 ツトム君にとってのいい循環は〝診断もどき〟から始まりました。先生がツトム君を客観的に見ることで過度に感情的にならず、そして視点を変えてみることで、彼を再発見し、それが彼の対応の発見へと結びついた例です。診断が、「子どものとらえ方の変化」→「試行錯誤」→「対応の試行」→「新たなる発見」→「あらたなる対応」という循環を作りだしていました。このプラスの循環は、問題を抱えた子ども(のケース)では、改善に向かうための理想的な循環だと思います。しかし、この循環は「診断」がないと作られないものなのでしょうか? このエッセーの冒頭に紹介した「教育の医療化」への批判の一つが、このような疑問なのだと思うのです。

 私たちは「診断」というと「高血圧」とか「高血糖」という医学的診断・説明を連想します。「高血圧」とか「高血糖」と言われた際には、専門の先生に「どうすればいいんでしょう?」と尋ねますよね。内科の問題っていうのは、「診断」と対応・対処がセットになっていることが多く、その答えを専門家である医師や看護師、栄養士などが教えてくれるという構造でやりとりしていきます。ところが、発達障害の診断は内科疾患の診断とはそういう点で大きく違います。診断でおおまかな特徴は把握できても、「この子(個)」の特徴に多様性がありすぎて、診断だけでは対応を一概に判断できないのです。診断や(心理)検査はせいぜい「仮説」を提供するくらいのものです。その子どもの特徴については、結局先生や保護者の試行錯誤と発見に委ねるしかないのです(「試して発見」と呼んでます)。上の例のたか子先生がいい例だと思います。

 にもかかわらず、多くの現場の先生が「アスペルガーと診断された子どもの対応を教えてください」という質問を、多くの「専門家」と呼ばれる先生方に尋ね歩く現状があるわけです。「診断」という医療の営みが、学校の先生の「考え・試して・発見する」機会を奪っている(思考・試行停止)状態を招いているとも考えられる状況です。診断も検査も結局は「仮説」くらいなものだと考えると、最終的には自分で試して、自分で発見するしかないのです。「教育の医療化」への批判には、そういう教育現場を振り返ろうという見方が含まれているのだと思います。