みなさんは、「アンパンマン」ご存じですか? そう、あのアンパンマン。「アンパ~ンチ」のアンパンマンです。作者のやなせたかしさんが亡くなって1年少し経ちますが…。アンパンマンのストーリーがワンパターンなのも、もちろんご存じですよね。最初の何分かで、アンパンマンの仲間の誰かが「バイキンマン」や「ドキンちゃん」のいたずら、悪だくみ、いじめに巻き込まれます。それを知ったアンパンマンとその仲間が、バイキンマンをやっつけに行くわけですが、アンパンマンはバイキンマンに顔を濡らされて「ちからがでな~い」になるわけです。そういうやりとりを見ている子どもたちって、結構目の色がメラメラしてます。そうあのストーリー展開が、彼らの攻撃性に火をつけるんです。うち実家が保育園なので、よくアンパンマンのビデオを見せていたのですが、このあたりの展開に来ると子どもたちは集中してじーっと、そしてメラメラと、テレビの画面をみてますよ。

 そこで、ジャムおじさん、焼きたての顔をもって登場。元気100倍アンパンマンってなるわけです。ここにくると、うちの保育園の子どもたちのなかには、アンパンマンの代わりにキックしたりパンチしたりし始めますね。最後の「きめ」でアンパンマンが「アンパンチ」するときは、保育園の子どもたちみんなが大合唱になる。…そう、アンパンマンは、正義の味方…、ではなくて、怒って、(心の中で)殴って蹴り飛ばす、攻撃性放出のためのストーリーなんです。

 そういうストーリー他にもご存じじゃありません? ほら、あるじゃないですか…、アダルト版アンパンマンが…。そう「水戸黄門」ですよ。あれも、基本的に最後に退治するもんね。でもあれは、殴って蹴り飛ばすだけじゃなくて、「ただのジジイ」と思っていた人が、社会的に地位と名誉と権力のあるお方だった…っていう、いかにも、アダルトのくすんだ攻撃性がぷんぷん臭うストーリーですよね。ちなみに、外国版がターミネーターや007、ランボーやブルースリーの映画…(少し古いかな)。

 でもこれらストーリーに共通してあるのは、前半で悪いやつが徹底的に悪いことをして、いいやつが徹底的に被害を受けるってところです。ここで大切なのは、いいやつは「いいことをする」というよりも、被害を受けるのです。そこで見ている私たちは、「こいつ(悪役)は殺されるだけでは足りない」と思うほど、怒りとリベンジに震え、最大限に攻撃性を放出させるようなストーリー展開にするわけです。そして最後に、悪役はやられるわけです。

 でも、よーく考えてみると、最後に悪役のやっつけられ方のほうが、最初彼らがやった加害行為よりも数倍ひどく残酷なやられ方(殺され方)だったりするわけです。アンパンマンだってそうです。バイキンマンは決して、アンパンマンやその仲間を、お山の向こうにぶっとばすようなパンチをおみまいしたことはないはずです。あわれ、バイキンマン…。

 我々善良な市民の攻撃性をこれだけ放出させることができるのは、ストーリーの力ですね。ストーリーって人を納得させる力がある。考えようによっては、人の納得を影響(操作)する力がある。だから凄いし、だから怖い。ここの例でいえば、迫害する人とされる人が目の前にいたとき、見ている人は被害を受ける人のほうに同一化する(味方する)ようなんです。そして「悪い」と思っているところに敵対するポジションをとる、あるいはより「正しい」と思うところに同一化(味方)するものなんですね。見ている人は「どこに味方してください」なんていわれないにもかかわらず、子どもたちも大人も、自然に「いいやつ」のほうに味方(同一化)するわけです。そして「いいやつ」はどんどん迫害をうけ、悪いやつに対する攻撃性を着火していくわけです。

 一時期アンパンマンの教育的価値がうたわれた時期がありましたが、わたしはアンパンマンのメッセージには少し注意も必要だろうと思っています。確かに「正義」をテーマにしたストーリーではあります。しかし、基本的にあれは「正義」を活用した、攻撃性放出ストーリーだと思います。やっつけるためのストーリーなんですよね。もう少しいえば、「これが正しい」とか「正しいことをやろう」っていうストーリーというよりも、「お前は悪い」っていうストーリーのほうがどうしても強調されてしまっている。「お前は悪い」だからリベンジっていうスタイルのストーリーは、「正義」がテーマであっても、「正しいことをやろう」っていうストーリーにはなりにくいことがあります。実際にアンパンマンで行われる正しい行為のなかで一番インパクトがあるのは、やっぱり「アンパンチ」(=リベンジ=攻撃性)なんです。

 このことは我々の「正義」について考えさせてくれます。「正義」は、私たちが何をすべきかってことを考える人間の営みです。「考える」ことです。しかしときに、その営みは、「お前は悪い」「あれは悪い」という他罰感情に火をつける着火剤にもなり得ます。もちろん、悪いことを悪いと考え、発言することはとても大切です。一方、正義という営みの、「お前が悪い」という他罰の側面だけが強調されると、悪者にされた者の主観が、考える人の思考から削除されてしまいます。悪者がどういう思いでそういう行動をせざるをえないかを考える余地を与えず、もうひとりの登場人物の主観と感情が削除されてしまうわけです。アンパンマンでいえば、バイキンマンも人(というか「みんなと同じ痛みと悲しみをもった存在」)なんだっていう感覚が薄くなっていくわけです。

 そしてもうひとつ怖いのは、自分が正しければ、何を言っても、何をやっても「正当性」があるっていうことになりかねないことです。「正当性」「正しさ」に裏打ちされた人間は、強くなれます。それは攻撃的になれるということでもあります。しかも他人の困りや悲劇を代弁するときの人間は、とても「正しく」かつ攻撃的であることがしばしばです。しかし他者非難が前面に出た「正義」は、他者への思いやりと共存関係を奪ってしまう可能性があるわけです。そこにあるのは、悪者の側に立たされた者から見た別の悪者以外の何ものでもないはずです。これは正しさと正しさが衝突する、戦争の構造だと思うのです。

 「正義」ははき違えると、とても、とてもやっかいなのです。人として「正義」を持つことは大切なものですが、迷いのない正義は要注意のようです。はき違えないように、お互い注意していきたいものです。