■沖縄に自主避難した人々の思い

 2人目に紹介したのは、福島県本宮市出身の木村貞夫さん(65)だ。木村さんは11年前から那覇市で暮らす。沖縄の福島県人会事務局長を務め、3・11後は福島からの避難者の受け入れに奔走した。変化に気づいたのは、3カ月が経過した2011年6月ごろだったという。
 〈放射線量が比較的低い内陸の母子らの自主避難者が増え始めた。「避難区域外なのに、なぜ沖縄まで来るのか」。幼児を抱く母親が教えてくれた。「放射線が怖い。沖縄は国内で原発から最も遠くて安全な土地だから…」。18歳まで過ごした福島を、原発事故が変えてしまったことを実感した。
 「福島のコメは食べない」「絶対に帰らない」。こうした声を避難者からたびたび聞いた。過剰な反応と受け止めていた。だが、丁寧に耳を傾けると、自主避難者の内面がくみとれるようになった。彼らが共通して抱えているのは、原発事故の対応に当たる政府への強い不信感だった〉
 自主避難者の思いに寄り添う中で、木村さんは原発に対する考えを変えていく。
 〈福島の原発は首都圏への電力源で、立地町に経済的恩恵をもたらした―。そんな認識を抱いていた木村さんは、避難者の受け入れを通じて原発に対する考え方を変えた。「国内で再び深刻な原発事故が起きれば、日本全体が危うくなる可能性もある。再稼働を早急に進めていいのか」〉
 木村さんは元航空自衛官だ。現役時代、沖縄に赴任した木村さんは県民の強い反発にさらされた。木村さんは「ひどいところに来てしまった」と思ったと打ち明ける。しかしその後、木村さんは沖縄県民にも心を寄せるようになる。
 〈太平洋戦争で沖縄の人々は地上戦を経験した。戦闘のさなか、住民が「集団自決(強制集団死)」などで命を落とした。航空自衛隊員として沖縄勤務経験のある木村さんは、自衛隊に対する沖縄県民の複雑な感情も知る。「国のために犠牲になったという思いは、そう簡単に消えるものじゃない」〉
沖縄の現状について木村さんはこう語った。「国は地上戦の悲劇に見舞われ、米軍統治で苦しんだ沖縄に遠慮しなくなった。沖縄に軍事的負担を押し付け、地元住民の声は置き去りにされている」

■各紙4人の記者で取材班立ち上げ

 地方紙の限られた人員で取材班を立ち上げるのは常に悩みの種だ。50回超を予定している今回の連載企画では、各紙4人ずつの取材記者を確保した。沖縄側からは、朝日新聞から記者交流で昨年4月から1年間、沖縄タイムスに出向中の小寺陽一郎記者も取材班に加わった。小寺記者は2010年4月から12年3月まで朝日新聞福島総局に勤務した経験がある。
 とはいえ、専属で取材に当たる記者は各紙1人ずつというのが実態だ。ほかのメンバーはルーティンの業務の合間に、「掛け持ち」で入れ替わり参加するかたちになった。このため、顔を合わせての会議を頻繁に重ねるわけにはいかず、取材班のメーリングリストを立ち上げ、コンセプトや意識の共有を図った。