沖縄戦後、女性たちが経済的な自立を目指し、オープンした美容室には、多くの米軍関係者がネイルサービスを求めて訪れた。しかし、1972年の沖縄の本土復帰を境に利用者は次第に減っていった。背景には、復帰直前の経済情勢が影響していた。

復帰前後の那覇市の消費者物価指数の推移

破格の値段

 米兵やその家族がコザの街でネイルをしていた理由は、沖縄の物価が基地内に比べて激安だったことにあった。 米軍統治下の1960年代、沖縄の通貨は「ドル」。為替レートは、1ドル360円だった。 コザ市(現・沖縄市)で美容室を開いた平安名雪さん(78)によると、1965年当時、基地内でのマニキュアのサービスが約20ドル(7200円)だったという。一方で、同年12月の沖縄タイムスの記事では、沖縄県内のマニキュアの最安値が80セント(約288円)だったと報じている。基地内のわずか4%の値段だ。 平安名さんは「3ドルあれば、マニキュアもパーマもできた時代。沖縄は物が安かった。だから、米軍関係者が美容室を訪れてマニキュアをしていた」と振り返る。 コザ市で米軍関係者にネイルを施していた山内香代子さん(74)によると、美容用品を扱う業者は、外国の化粧品メーカー「マックスファクター」や「レブロン」のマニキュア液を取り寄せ、県内の美容室に卸していたという。米軍統治下で、物資のほとんどが免税、もしくは低関税で輸入できた。 山内さんは「材料も格安だった。ほとんどの客はパーマとマニキュアの両方をオーダーしていた」と話す。 しかし、沖縄の女性の自立を支えたネイルブームは、あっという間に終わりを迎えてしまう。

本土復帰後の円高で利用者減

 沖縄が本土復帰を控えていた71年、米国のニクソン大統領がドルと金の交換停止を発表した「ニクソンショック」が、沖縄のネイル業界に大きな打撃を与えた。日本円は1ドル360円から308円に切り上げられ、輸入品の高等に伴い、沖縄の物価は上がっていった。 例えばパーマ代。71年の那覇市の相場が2ドル75セント(約990円)だったのに対し、73年には1800円に跳ね上がった。 商品やサービスなどの物価の変動を表す「消費者物価指数」は、復帰を境に急上昇。72年を100とすると、2年後の74年に1・5倍、6年後の78年には2倍以上にもなった。 物価が上がるにつれ、基地外の美容室でネイルを注文する米軍関係者は少なくなっていった。 美容室が独占できていた外国製のマニキュア液や、ささくれや甘皮を切るニッパーなども、沖縄の一般の人が手に入るようになった。 74年5月の沖縄タイムスの記事では、「指先を美しく」の見出しで、マニキュアをする際のマッサージ方法を紹介している。77年8月には、「米国でボトルを下にしてもこぼれないマニキュアが発売された。千円」との商品紹介の記事もある。ネイルはもはや、プロにお願いしなくても、自分でできるおしゃれとして徐々に広がっていったのだ。連載第2回「ネイルの先駆けだった沖縄」
連載第1回「沖縄のネイルサロン、東京に次いでなぜ最多?」