人口10万人当たりのネイルサロンの件数が、都道府県別で東京に次いで2番目に多い沖縄。参入障壁の低さによる店の乱立によって、質の低下などの問題も表面化してきているが、沖縄では、戦後、美容師など手に職を得た女性たちが経済的、社会的自立を目指し、米兵やその家族にネイルを施してきた歴史があった。

1960年代のネイル事情を振り返る平安名雪さん(左)と山内香代子さん=沖縄市園田の「ゆき美容室」

女性の自立の近道


 1964年、沖縄。平安名(へんな)雪さん(78)は、結婚を機に出身地の西原村(現・西原町)から移り住んだコザ市(現・沖縄市)で美容室を開いた。沖縄の美容学校を卒業後、東京に渡り、「山野高等美容学校」でネイル、化粧、日本髪など最先端の技術を勉強した。当時28歳。満を持してのオープンだった。
 そのころの沖縄は、米軍の占領下。本土に渡航するには、パスポートが必要だった。女性が手に職を持ち、店を開くことはまだ珍しかった時代。「最先端の技術を学ばなければ、商売は成り立たない」。東京で美容の勉強に打ち込んだ。
 美容室の名前「ゆき美容室」は自分の名前「雪」から取った。友人や親戚が店を探しやすく、地域の人にも身近に感じてもらえるとの考えからだ。理由はもう一つある。自らの名前を店名として掲げることが「女性の自立の象徴だった」と振り返る。沖縄では今でも「きみこ美容室」「みえ美容室」と、店主の名前を冠した美容室が残っている。

「マニキュア、プリーズ」


 平安名さんが店を構えた1960年代のコザ市は、隣接する米軍嘉手納基地に駐留する米兵を対象としたバーやレストラン、ライブハウスなどの店が立ち並び、にぎわっていた。63年にはベトナム戦争が始まった。爆撃機が嘉手納基地からベトナムに向かい、米兵も増えた。コザの街の盛り上がりは70年にかけて、隆盛を極めた。
 「ゆき美容室」には、米兵の妻や子どもたちが詰めかけた。平安名さんは片言の英語でやりとりをしながらパーマをかけ、髪を洗った。髪を乾かすためドライヤーをセットすると、すぐさま客から「マニキュア、プリーズ」とオーダーが入る。
 当時のドライヤーは、頭全体をすっぽりと覆う形で、乾くまでに20分ほどかかった。平安名さんは、髪が乾くまで、客の爪にやすりをかけ、甘皮をむき、マッサージをした。そして真っ赤なマニキュアを丁寧に塗った。
 「米国の人にとってのおしゃれで、マニキュアは必須だった。短時間で塗り終わると、『グッド』と言って、リピーターになってくれた。あの時代、ネイルは欠かせなかった」。

マニキュアガール


 コザでは、客を米軍関係者に限定してネイルを施す美容室も出現。山内香代子さん(74)は22歳の時、そこで働いていた。「マニキュアを塗るだけ。当時はネイルとは言わず、マニキュアと呼んでいた」。マニキュアを施す美容師は“マニキュアガール”と呼ばれ、指名もあるほどの人気だった。「マニキュアガールは、今のネイリストの走り」と振り返る。基地内で暮らす米兵の妻から美容室に電話があると、客の自宅に出張し、結婚式の時には式場に出かけて花嫁にマニキュアを塗った。
 次第に米兵の妻たちから沖縄の人にもマニキュアは広がっていった。米軍公認を示す「Aサイン」バーの店員や基地内の従業員、OL…。時には、男性の米兵も爪のケアにやってきた。「マニキュアは珍しいものではなかった。需要は高かった」

 しかし、米軍関係者がコザの美容室を利用してたのには別の理由があった。

(随時掲載します)



連載第一回「沖縄のネイルサロン、東京に次いでなぜ最多?」