相模原の知的障がい者施設で、19人もの入所者が殺害されるという、実に痛ましい事件が起きた。容疑者は、「ヒトラーの思想が降ってきた」などと話していたと言う。

 大量殺人と言えば、テロやヘイトクライムを思い浮かべるが、この事件は、そのいずれとも異なる。テロは、社会に恐怖を与えることで、人々を操作し、政治目的を達成しようとする、いわば大規模な脅迫だ。しかし、今回の容疑者は、政府に要求を突き付けているわけではなく、障がい者の殺害自体が目的であった。

 また、ヘイトクライムは、特定の人種や民族等に対する蔑視感情や憎悪に基づく犯罪だ。アメリカの黒人差別や同性愛差別などが典型とされる。今回の事件は、一見、障がい者差別に起因するようにも見える。しかし、容疑者の言動は、障がい者への差別や憎悪といった不合理な感情や衝動ではなく、一貫した論理に基づくもので、ヘイトクライムとも性質が違う。

 今回の事件から連想すべきは、多くのメディアが指摘するように、ナチスの優生学だろう。優生学とは、人間の生を、国家や社会にとって有意義なものとそうでないものに分別し、後者を排除しようとする思想だ。

 米本昌平氏が指摘したように、優生学が厄介なのは、それが不合理な感情論ではなく、合理性を突き詰めた発想である点だ。経済発展や軍事的勝利など、狭い視野に基づく目的を至上命題としたとき、「足手まとい」に見える生はいろいろある。ナチスは、障がい者を「国家の発展のために排除されるべき生」と位置づけ、虐殺したのだ。

 容疑者が精神疾患を患っていたため、措置入院の厳格化や施設の警備強化に注目が集まりがちだ。しかし、事件の背景には、優生学的な思想がある。この悲劇を二度と繰り返さないために、こうした思想にどう向き合っていくかが問われねばならない。

 優生学を克服するには、「そんな発想は不合理だ」と非難するのではなく、その合理性をさらに突き詰めた時の結論と向き合うしかない。

 障がい者を排除すれば、障がい者の支援に充てていた資源を、他の国家的な目標を実現するために使えるだろう。しかし、それを一度許せば、次は、「生産性が低い者」や「自立の気概が弱い者」が排除の対象になる。

 また、どんな人でも、社会全体と緊張関係のある価値や事情を持っているものだ。たばこを吸う人、政府を批判する人なども、社会の足手まといとみなされるだろう。国家の足手まといだからと、誰か1人でも切り捨てを認めたならば、その切り捨ては際限なく拡大し、あらゆる人の生が危機にさらされてしまう。

 だからこそ、「個人の尊重」という価値を、他のあらゆる国家的価値に優先させる必要がある。ドイツではナチスへの反省から、憲法(ボン基本法)の冒頭に、「人間の尊厳」が規定されるに至った。日本国憲法も、人権条項の中核として、第13条に「個人の尊重」がうたわれている。

 今回の事件は、私たちの社会が、「個人の尊重」という価値を根付かせることに失敗しているかもしれないことを示唆している。個人の尊重のために、あらゆる努力を尽くさなくてはならない。(首都大学東京教授、憲法学者)=第1、第3日曜日に掲載します。