8月15日の終戦記念日は一般に「戦争が終わった日」とされている。庶民の戦争体験に照らして平たく言えば、「日本が戦争をやって、こてんぱんに負けた日」(歴史学者・坂野潤治氏)である。

 米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日、降伏文書に調印したのは9月7日。この時期、食料事情が窮迫し、収容所に収容された住民の多くが、飢えやマラリアの犠牲になった。

 講和条約が発効した4日後の1952年5月2日、政府主催の戦後初めての「全国戦没者追悼式」が東京・新宿御苑で開かれた。その翌日には「平和条約発効並びに日本国憲法施行5周年記念式典」が開かれている。

 だが、日本の独立を祝う式典も、憲法施行を祝う式典も、沖縄とは関係がなかった。

 米軍が上陸する前、日本軍は住民を動員して県内各地に飛行場を建設し、軍事要塞化を図った。米軍は上陸後、本土侵攻のための基地としてこれらの日本軍飛行場を整備・拡張。さらに50年代に入ると、新たに農民の土地を強制接収し、本格的な基地建設に乗り出した。

 そのような経過を経て米海兵隊は本土から米軍政下の沖縄に移駐し、沖縄の負担が大幅に増えたのである。

 沖縄は軍事政策がすべてに優先する軍事植民地だった。 だが、沖縄戦が終わって71年、施政権が返還されて44年がたっているにもかかわらず、軍事優先政策は今も変わっていない。否むしろ、日本政府の対応という点でいえば、疑いもなく今が最悪である。

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 米軍普天間飛行場の辺野古移設計画を主導した元防衛事務次官の守屋武昌氏は、現役時代、米軍再編を実現することによって「沖縄の戦後を終わらせたい」と何度も語っていた。今はあまり言わなくなったが、安倍首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」を強調してきた。

 しかし、彼らの机上のプランと、歴史体験に根ざした県民の思いの間には、埋めることのできない千里の隔たりがある。

 沖縄を「基地の島」として半永久的に固定化し、不平等と対米従属の象徴である地位協定も運用見直しで済ますということは、「戦後レジームからの脱却」ではなく固定化することにほかならない。

 そもそもの誤りは、「抑止力の維持・向上」と「沖縄の負担軽減」という相容れない二つの政策を沖縄だけに負わせ、沖縄の中で実現しようとしたことだ。

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 戦後日本は、屈辱感がつきまとう「敗戦」という言葉を意識的に避け、「終戦」という言葉をいわば政府公認の用語として使ってきた。

 時とともに、敗戦がもたらした負の遺産に正面から向き合う姿勢が弱まり、東アジア諸国に対する戦後責任という視点も急速に薄らいでいる。 終戦記念日の15日は、沖縄では、旧盆のウンケー(お迎え)にあたる。49年8月15日付朝日新聞「天声人語」の指摘をかみしめ、不戦を誓う日にしたい。「親しかった人々の霊魂は迎えても、旧日本の亡霊はむかえてはならぬ」