■貧困と援助の経済学
 貧困を目にすれば、放っておける人の方が少ない。生活資金の援助をはじめ、医療費の補助、子供の教育補助など、できる限り手を差し伸べたいと思うのは、当事者にとっては当然のことだ。そして、これらの崇高な行為は、「資金的な援助が貧困を解消する」という前提に立っている。この考え方に疑問を持つ人はほとんど存在しない。

 沖縄の本土復帰以来44年間、その前提に基づいて、多くの有能な人たちが計画を立案し、予算を獲得し、実行にいたる一連のプロセスを管理してきた。長期間にわたる多大な努力にもかかわらず、沖縄の貧困は全国最悪の水準なのだが、これはその前提に誤りがあると考えるべきではないのだろうか?資金的な援助は、そのやり方次第では、貧困を解消するよりも増幅させるという可能性だ。

 このような考え方は、貧困と援助に関する経済学分野で実証研究と理論化が試みられている。2015年のノーベル経済学賞受賞者で、貧困経済を専門とするアンガス・ディートンが主張する、「援助の錯覚」という概念がそのひとつだ。

 「金持ちが貧乏人にお金を渡せば、貧乏人は貧乏ではなくなるという単純な考え方。この信念は、あまりにも強力すぎて、多くの人は、これが間違っているかもしれないという可能性を考えることさえしない」(アンガス・ディートン『大脱出 健康、お金、格差の起原』みすず書房

 経済成長(そして、所得の増加)が貧困に対する最も確実な解決策だということは、理論と結果が示しているが、援助が成長を促すとは限らないというのだ。私が、「貧困の解消とは、補助金(援助)に頼らず所得を増やすこと」だと考えるのはこのためだ。

 ディートンはインドと中国の事例を上げる。世界の貧困層の約半数(2008年では48%)が両国に住んでいるが、2010年に両国が受け取ったODAの援助合計額は35億ドル、援助総額のわずか2.6%である。それにもかかわらず、(あるいは、それだからこそ)過去数十年にわたって、世界で経済的に最も成功し、最も貧困が激減している。

 一方、アフリカの小国は規模に対して大量の援助を受けているが、経済は芳しくない。右肩上がりに援助が増える中で経済成長は停滞していたが、冷戦の終結によって、先進国がアフリカを援助することの動機が失われた後で、成長が回復し始めている(※注1)。

■援助を妨げる構造

 なぜ援助が地域の経済成長につながらないのか。ディートンは、援助を受ける貧困国の内部に「開発の条件」が整っていなければ、どれだけ資本が投下されてもムダ金になってしまうという点を指摘している。発展途上国の場合は、質の悪い制度、質の悪い行政、専制政治などであり、このような貧困国の政府に資金を与えることは、利権と格差を生み、貧困を撲滅するどころか長引かせる結果になる。貧困削減を図る経済政策を立案する際、まず、その地域に固有の文化特性や経済構造を理解しなければならないのはこのためである。

 援助が貧困を増幅させるような社会構造が沖縄にも存在するのであれば、援助以前に、まず、この基本構造を明らかにしなければならないはずだ。そうでなければ、どれだけ多額の援助を行っても、状況を改善するどころか、逆に悪化させる原因を作ってしまうかもしれないからだ。本土復帰からこれだけ長い期間が経過しても、依然として沖縄の貧困が突出している理由は、この基本構造に対する認識と配慮を欠いたまま、大量の援助を続けた結果によるものではないだろうか。

 そして、これまで述べてきたように、沖縄社会の場合、人間関係に対する微妙な配慮や間合いが、経済の基本構造を構成する重大な要因となっているために、その実態が視覚化されにくいのだ。人間関係への細やかな配慮は、多くのウチナーンチュにとって、あまりに当たり前のことで、ほとんど無意識に生じることが多い。まるで魚にとっての水のように、自分がその構造の中に存在していることに気がつく人の方が少ないくらいだ。

 沖縄を愛し、「沖縄社会の問題解決に尽力したい」と考えているウチナーンチュは少なくないのだが、いざ実行段階になると、人と気まずくなりそうな行動には強いブレーキがかかりがちだ。人間関係に波風を立てる覚悟を持たなければ、実質的に現状維持派として行動しているのだ。「沖縄社会を憂慮しながらも、しがらみを断ち切れず、自分が現状維持派だという認識を持たない」人たちの姿だ。このような基本構造を持つ沖縄社会に投下された大量の補助金が、社会の固定化のために意図せず使われ、沖縄内部に格差と貧困を生みだしているのは、いわば教科書通りの現象なのだ。本稿で明らかにしようと試みているものがこの「基本構造」である。これを特定しなければ、貧困の解消は極めて困難な作業になるからだ。

■経営する側の事情

 最近会話した沖縄のある経営者が私にこう語ってくれた。

 「貧困の原因は経営者が十分に報酬を支払わないからだ、という樋口さんのご意見は耳が痛いです。でも私の立場からすると、法的な基本給(最低賃金)を上げてほしいですね。そうすると価格に反映しやすくなるので、従業員の給与アップにつながるんですが・・・」

 裏を返せば、「自分から進んで従業員への報酬を上げる気はない」「最低賃金以上は支払うつもりがない」という意味だろう。そこには、周囲の手前、自分の会社だけが報酬を上げる、あるいは、価格を上げることが不可能だという事情(思い込み)が見え隠れする。社会が変わるのであれば自分も「喜んで」腰をあげるが、自分が変革の矢面に立たなければならないことは、選択肢になり得ない。

 特に、沖縄においては、良いものを(割高に見える)適性価格で提供することに対して、根強い罪悪感が存在するように感じられる。私が以前、有機野菜の流通業の経営を手伝っていたとき、一人一人の従業員とじっくり会話を重ねたことがある。あるパートタイマーから衝撃的な話を聞いた。彼女は自分がこの会社で働いていることをずっと友人に隠しているのだという。有機野菜は一般的な野菜と比較して圧倒的に品質が良いのだが、その分価格が割高で、「あのぼったくりの会社ね」と思われることに抵抗があるというのがその理由だった。良いものを適正価格で提供することを妨げるのは、やはり人間関係に起因している可能性がある。

 このようにして、現状維持が重視される沖縄社会で企業に補助金が投下されても、本来の趣旨である、より良い商品開発のための研究費や、品質を向上させるための原材料費や、従業員の労働環境を整備するための人件費などには使われにくい。

 多くの場合、このような企業が受け取った補助金の分だけ、価格を押し下げる効果が生じることになる。価格を下げれば、地道な事業努力を積み重ねなくても、容易に集客が可能で、誰も傷つけないし、恨まれたり、後ろ指を指されたりすることもない。沖縄経済は、これらの結果として、莫大な補助金を原資に、構造的な安物市場を形成していることになる。かくして、沖縄市場においては良い商品やサービスが育ちにくく、低品質低価格の商品が溢れることになる。

 沖縄のこの基本構造が変化しなければ、どれだけ補助金を投下しても(あるいは、それだからこそ)、市場には安かろう悪かろうの商品があふれ、労働賃金はいつまでたっても最低のまま。それどころか、補助金に頼らず、積極的に従業員に利益を還元し、より良い商品を作ろうとする、創造的な事業者の競争力を相対的に削いでしまう。この基本構造の下で、自立を目指す、いわゆるまっとうな企業ほど破綻しやすい環境が生まれているのだ。