家を出て1時間内のドライブの距離に、大学と道場があった。夜中の勉強中、気分転換にも空手の型を練習するため反復されたテープを繰り返しかけた。

当時、衝撃を受けた千原エイサーの様子を描いたイラスト

 現在は50歳前後の3人の子どもたちは、今でもその歌曲を子守歌のように思っている。彼らが覚えているのは「松の踊り」「滝落とし」のメロディーだけ。それが私なりの「空手エイサー」の出発点でPTSD対応の一環でもあった。

 曲に合わせて衝動的に踊っている時、自己肯定できた。空手の型の繰り返し、あるいは自由自在に扇やサイを振り回しているとき。私だけの秘密の時間で一人だったが孤独ではなかった。自分が自然に癒やされていくのを徐々に感じていた。

 しかし、いい年をして子どもたちと空手道場へ通ったり、空手モーイ(踊り)をしているこのウチナーイナグが、日本人、ウチナーンチュの両男女たちから変人だと敬遠されていた。それは後で明確になった。

 それで婦人踊りやエイサーのような団体の踊りを習って持ち帰り、県人会員らと親睦を始めようと考えた。子どもたちは皆成人だったので単独で沖縄へ戻った。

 復帰して14年ぶりに見たワッター島ンチュたちは、ヤマトゥンチューになろうという雰囲気が充満していて強烈な印象だった。物質的には合理化し改善されていたが、ウチナー独特の素朴性のある「真・善・美」を消失しつつあるのではないかと不快感が湧き出た。

 女性たちの衣装はかすりや紅型模様ではなく、踊りの振りにも音楽にも私はなじみを感じなかった。心理的に萎縮された「方言札」の頃を思い出し、違和感で不愉快だった。女性たちの踊りを見てその頃のウチナーンチュの独自性を疑った。当時の沖縄の婦人踊りを習って持ち帰る普及計画はたちまち消滅した。

 久しぶりの沖縄現地にいてウチナーへの郷愁をしのんだ。落胆していた私をまだ健在だった母は理解し、2日後、母に誘われ中部での全島エイサー大会を見に行った。そこには私が恋しく思い探していたウチナーがあった。各団体のエイサー披露は次から次へと続いた。大太鼓を使っての動きには観衆が圧倒されている中、大太鼓が中心になったエイサーへの不安の念が横切った。

 すると、見たことも聞いたこともない団体が出場した。それは嘉手納の「千原エイサー」だった。

 入場曲に合わせた団体の構えや衣装から、すぐに他の団体とは違うと分かった。空手の型を応用した手さばき、特に琉球独特の拳の構えなどが強烈な印象だった。上下白い空手着にたすき掛け、白黒のきゃはん姿が印象的で私はとっさに安堵感(あんどかん)を抱いた。ウチナーンチュとしてのアイデンティティーを取り戻し、心が回復した。反射的に立ち上がり近くまで見に行った。私のウチナーDNAが、千原エイサーを見ている間に再び充電されていくのを感じた。