今年は5年に一度の「世界のウチナーンチュ大会」が開催されます。今回で6回目。
 大会は、世界中で沖縄にルーツを持つ人(ウチナーンチュ)たちが集まり、アイデンティティーを確認する沖縄県独自の一大イベント。沖縄県によると、世界中に約42万人のウチナーンチュが暮らしています。

「沖縄・人-その広がりを求めて」をテーマに、世界のウチナーンチュ大会が、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターをメイン会場に開かれた=1990年、宜野湾市・沖縄コンベンションセンター

 沖縄から移民を送り出していた“移民の父”當山久三により、沖縄県最初の移民が1899年12月、ハワイに旅立ちました。時期は本土から約15年遅れたものの、次第に移民数は増え、1905年には1620人が移民。世界に出て行った人々の数は全国比で12%余、25年には2606人、全国比で約24%を占めるほどになりました。

 移民が始まった1899年から1903年にかけて、県内で土地を集団で共有する土地制度「地割制」が崩れて、土地の所有権が確立されました。人々は土地を売って海外渡航費を捻出できたことも移民の増加を後押し。先駆移民からの呼び寄せ、徴兵忌避などの動機もあったといいます。

 当時、沖縄の人々の暮らしは貧しく、出稼ぎなど経済的な理由で移民が盛んになりました。県も、人口過多や移民先からの送金による経済振興を期待し、移民政策を推進しました。

 行き先地はハワイから南米のペルーやブラジル、東南アジアのフィリピンやシンガポールなどへと広がりました。移民らはサトウキビ畑やコーヒー農園などで過酷な重労働を課せられました。さらに本土出身移民者との間には言葉や習慣の違いもあり、ハワイでは「沖縄ケンケン豚カウカウ=沖縄人は豚を飼って食べる」(カウカウはハワイ語で食べるの意)と差別的な言葉を投げられる者もいたといいます。

 一方で、ウチナーンチュたちは世界各地で市町村人会をつくったり、「頼母子(たのもし)」と呼ばれた模合などで助け合い、過酷な移民地での生活基盤を築いていきました。

 郷里を思う気持ちは戦争で荒廃した沖縄の地の戦後復興にもつながりました。日本と敵対する国に移民した1、2世は戦時中、厳しい立場に置かれましたが、戦後は衣類や食糧、種豚などを送る救済運動が各地で広がっていきました。

 戦後は移民も再開し、80年からは南米の県系人らが日本に戻り、出稼ぎする流れも生まれました。

 リーダーとなるウチナーンチュも多く、2014年には県系3世のデービッド・イゲ氏が全米初の県系知事となり、話題になりました。