1987年夏、千原エイサー団は空手踊りを見事に披露した。それまで8年間、琉球音楽に合わせ勝手に空手踊りをしていた自分は、決しておかしくはなかったのだと確信を得た。団体演舞の終了後、裏に回って団長らしき男性に「教えて下さい」と最敬礼した。だが彼らの踊りは伝統的に男だけのエイサーだ、との返事。私は失望しあぜんとしながらその場を去った。

世界のウチナーンチュ大会で演舞を披露した「ニューヨーク・ヤカラーズ団」=国立劇場おきなわ

 帰りの機内でエイサー書物に没頭した。千原エイサーは私の心理療法の「武の舞」を肯定し、帰宅するまでにはエイサーの骨組みができた。高速を運転中、母からもらったカセットの琉球古典・民謡全集を繰り返しかけた。休憩所で車から出て記録やスケッチを見ながら振り付けに無我夢中になった。振り付けは頭の中で「ふ化」し現実のものとなる。87年には「空手エイサー」の他にも振り付けが完成。団体踊りは当会だけでなく他の県人会での親睦にも役立ち、初めてのウチナーンチュ大会に「空手エイサー」で出場した。   

 道場、舞の振り付け、準備、みんなとの練習プロセスなどで余暇は過ぎていった。勤務先の青少年たちのわめき声や親たちの悲痛な訴えも気にならない。自然と勤務上のストレス対策にもなっていたのだ。武の修業が私の精神防衛「昇華」であるのは事実であり、第二次PTSDへの自己管理に応用できた。喜怒哀楽を有する当然な人間として自分も「Safe、Strong、Free」に生きる権利がある。

 30年前、なぜ「空手エイサー」というのかと県系2世に非難されたことがある。歌三線、踊りと同様、空手も「あしば~」(遊び人)がやる不良遊びの一種だと島内で軽蔑された時期があった。それは「方言札」政策の頃であり、その政策は琉球芸能を否定し辱め、島ンチュの一部の者たちを無気力にした。

 児童期に聞き慣れた琉球古典が、人生半ばに外国で個人的な苦境の境地から私をはい上がらせた。見て育った村芝居「松竹梅」が心理療法になった。歌詞や曲、空手の型、三拍子と条件がそろった。私にとってはエンパワーメント(Empowerment)であり、自尊感情の強化になり内面から活性化できた。「ふたふぁから いんじてぃ いくとぅしが ふぃたら いわをぅ だちまちぬ むてぃちゅらさ」(二葉から出て幾年が経たら、岩を抱き松のもたえ清らさ)。松竹梅「松」の歌詞である。

 「ニューヨークヤカラーズ」は渡米して何十年かたった。今回の大会で、老若男女、多様な人種や言語を使うわれわれがそれなりの「むてぃちゅらさ」を披露したつもりでいる。現地沖縄の友情出演者たちに脱帽の念を表する。ウチナーンチュ大会、いっぺ~にふぇ~で~びる。

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世界のウチナーンチュ大会で演舞を披露した「ニューヨーク・ヤカラーズ団」=国立劇場おきなわ