【平安名純代・米国特約記者】やろうと思えばできたはずだ-。住民の反発や政治的圧力を懸念し、日本本土の米軍基地の返還や整理を進める一方で、より多くの基地が集中する沖縄の米軍基地の整理には着手したがらない。1990年代半ばに在沖米総領事を務めたアロイシャス・オニール氏の口述記録を読み進めると、在沖米軍基地のプレゼンスの維持を重視する米政府と、沖縄の基地問題への取り組みに消極的な日本政府の姿が浮かび上がってくる。

住宅街を通り、県道104号越え実弾砲撃の演習場へ向かう大砲の車列(1984年)

 オニール氏が在沖米総領事として赴任した当時、大田昌秀知事は、(1)那覇港湾施設の返還(2)読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練の廃止および同飛行場施設返還(3)県道104号越え実弾砲撃演習の中止-からなる「三事案」を重要政策に掲げていた。

 当時、県道104号を封鎖して行う実弾砲撃演習は、交通の妨げや訓練の危険性が高いため、県民が強く反対。訓練が実施されるたびに反対デモを繰り返し、中止を要求していたが、日本政府は米側が訓練の廃止は困難と言っているなどと繰り返していた。

 オニール氏はそうした当時の状況について「(訓練は)とても安全だが、県民にとっては大きな問題で、知事も移転を希望していた」と述べ、海兵隊が訓練の移転に前向きだったと証言。日本側の説明とは逆の見解を示している。

 また、大田知事が実現を求めていたにもかかわらず、「日本政府は95年まで政治資本を投入したがらなかった」と述べ、受け入れの可能性がある地元との調整を怠るなど、事件が起きるまで腰を上げようとしなかった日本政府の消極的な姿勢を指摘。動かそうと思えばできたはずなのに「東京(日本政府)は単にやりたがらなかった」と当時を振り返っている。

 オニール氏は当時の沖縄の状況について、「小さな島に詰め込まれており、巨大でうるさい米軍の存在がすべてに影響を及ぼしていた」などと基地が過剰集中する沖縄の実態を表現している。