東村高江周辺の米軍ヘリパッド建設問題で14日、地元の海人が抗議の船を出した。国頭村の山城善勝さん(72)。2004年の辺野古新基地建設の反対運動以来12年ぶりだ。大腸がんの闘病を終えたばかりで、おなかには手術の縫い痕が生々しい。心には、それ以上に深い戦後史の傷痕が刻まれている。(北部報道部・阿部岳)

12年ぶりに運動の現場に「復帰」した山城善勝さん=14日、国頭村

 午前10時半、沖縄防衛局のチャーターヘリが資材を下ろす国頭村宇嘉川河口付近の海。山城さんは、カヌーなどで抗議に出る4人を漁船から見送った。

 10日ほど前に退院したばかり。約1年半の入院で2度の開腹手術、抗がん剤治療を乗り越えた。停泊した漁船の上、揺られながら踏ん張るだけで「おなかがチクチクする」。それでも、頼まれて船を出した。

 戦後、住民の収容所が集中した旧石川市(現うるま市)の出身。1945年の夏は0歳だった。戦後史を生き抜いてきた。

 55年、米兵に暴行され殺害された6歳の幼女は、山城さんの弟と遊んでいる時に拉致された。弟は目撃者として、警察に集められた米兵の中から容疑者を特定した。

 59年、宮森小学校に突っ込んだ米戦闘機は、その直前に山城さんたちがいた石川中学校の上をかすめた。「パイロットはもう脱出していた。無人で火の玉になって突っ込んでくる飛行機。校舎の窓から見て『もう死んだ』と思った」。死者は累計18人に上った。

 住民の怒りが爆発した70年のコザ暴動にも加わった。車をひっくり返して燃やした。「差別に対する怒り。だから同じように白人に差別されていた黒人の車だけは何もせずに通した」

 2004年の辺野古の海では、抗議参加者が少ない中で助っ人に加わり、「かっちゃん」と慕われた。14年に再び辺野古が、ことし高江が狙われた時には体調が悪く、「何もできず、いらいらするばかりだった」という。

 やっと復帰できた現場の海。「山が死ねば海も死ぬ」。ヘリパッドにも辺野古新基地にも反対する理由を、シンプルに語った。