【松田良孝通信員】日本が統治していたころに台湾の基隆市内で造られた防空壕跡のうち1カ所が、13日から一般公開されている。この防空壕跡が位置するエリアは、日本統治期に「義重(ぎじゅう)町」と呼ばれ、沖縄出身者が構える店もあった場所。会場では防空壕を整備し直し、旧義重町周辺を再興するアイデアを競うコンペも行われた。

日本統治期に掘られた防空壕跡を見学する人たち=13日午前、台湾基隆市

 防空壕跡は日本統治期に基隆神社だった丘の下に掘られているもので、長さ約250メートル。公開したのは入り口の部分。この丘と基隆港の岸壁に挟まれた地域は日本人が比較的多く暮らしていた。

 基隆市が発行した「基隆市商工人名録」の1935-36年版と38年版によると、旧義重町には旅館業の具志堅、靴屋の玉代勢、琉球産物の具志堅と新垣、理髪の知念などが確認できる。「与那峯」という玩具店経営者もいた。

 基隆は台湾の北の玄関として位置付けられ、要塞(ようさい)としての機能を担ってきた。アジア太平洋戦争末期には、基隆をはじめ台湾の広い範囲で空襲があった。

 桃園市出身で戦後基隆に引っ越してきた簡頼淑(ジエン・ライシュ)さん(94)は防空壕跡を見学し「桃園でもアメリカの飛行機が来て警報が鳴ると、防空壕に入りました。空襲の恐ろしさを思い出します」と話した。

 一般公開は基隆市の主催。旧義重町周辺は、観光地としても有名な廟口夜市などがある市中心部に比べて客足が鈍いことから、防空壕跡などを人文・歴史資源と位置付け、再興への足掛かりにしようと開かれた。