【普天間】辺野古移設巡り法廷闘争に

 5~7年以内に十分な代替施設が完成し運用可能になった後、全面返還とされ目玉だった米軍普天間飛行場。移設先はキャンプ・シュワブ沖合で事実上合意されていたが、最終報告では「沖縄本島東海岸沖」へ海上施設を建設するとの方針を示すだけにとどまっていた。

 2006年、シュワブ沿岸部を埋め立てV字形滑走路を備える飛行場を造る現行計画に、日米両政府が合意した。13年12月に仲井真弘多知事(当時)が埋め立てを承認。条件として提案した「5年以内の運用停止」に政府は前向きに返答したが、14年12月に新基地建設に反対する翁長雄志知事が誕生し態度を硬化させた。

 翁長知事は15年10月に埋め立て承認を取り消し、国と県は法廷闘争に入った。ことし9月には辺野古違法確認訴訟で福岡高裁那覇支部が国の主張を全面的に認める判決を出した。県は上告している。

 3月の和解により、新基地建設を巡る工事は全て止まっていたが、11月25日の和解条項について協議する「政府・沖縄県協議会」の作業部会で、県はキャンプ・シュワブ陸上部分の隊舎2棟に限り工事の再開を容認。防衛省は月内にも工事を始めるよう調整している。

【北部訓練場】ヘリパッド移設を強行

 北部訓練場は2002年度末をめどに、約7500ヘクタールのうち、海への出入りを確保した上で約4千ヘクタールを返還するとしていた。返還されない部分に七つのヘリパッドを移設することが条件。06年にヘリパッドは六つ、造成規模は直径75メートルから45メートルに変更された。

 07年に環境影響評価図書が公表され、工事が始まった。15年にN4地区の二つが米側に提供されたが、反対住民による抗議行動などで工事は2年近く止まっていた。沖縄防衛局は16年7月の参議院選が終わった翌朝から資機材を搬入するなど工事を再開させた。

 日米両政府は過半を返還できることから、基地負担の軽減に取り組む姿勢をアピールする。全国から機動隊員約500人を動員し、資機材を空輸するために陸上自衛隊のヘリを投入し、12月22日の完成・提供・返還に向け工事を進める。

 一方、翁長雄志知事は新型輸送機オスプレイの配備撤去を求めており、07年の環境影響評価でもオスプレイによる低周波音や排ガスの風圧などの影響が勘案されていないことから、四つのヘリパッドの本格的な運用が開始される前に再評価を求めている。

【那覇軍港】浦添への移設 足踏み  

 那覇軍港(56ヘクタール)は復帰直後の1974年に日米間で返還が合意されたが実現せず、96年のSACO合意で浦添埠頭(ふとう)地区への移設で再合意された。しかし移設は進まず、2006年の「再編実施のための日米のロードマップ」を経て、13年4月の嘉手納以南の返還時期を定めた「統合計画」に引き継がれた。

 現在、返還時期は28年度、またはその後とされているが、返還条件の浦添移設はめどが立っていない。軍港移設問題は、浦添市が進める西海岸開発計画と密接に関わり、歴代市長は市政の重要課題として取り組んできた。

 13年の市長選で移設反対を掲げて当選した現職の松本哲治浦添市長は15年2月に米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)沖を埋め立てて港湾施設やリゾート地を整備する西海岸開発計画を発表した。その2カ月後の4月、反対から受け入れに転じた。

 だが、移設位置を巡り、市と那覇港管理組合で意見が割れている。ことし4月には防衛省が複数の移設案を提示。夏ごろの合意形成を目指し断続的に県、那覇市、浦添市、那覇港管理組合の担当者らが協議を進めてきたが、議論は今もなお、平行線をたどっている。

【日米地位協定】米側の運用に左右

 最終報告では、米軍施設・区域への立ち入り手続きや米軍航空機事故調査報告の日本政府への公表など日米地位協定の運用改善もまとめられた。

 米軍基地への立ち入りは、地域社会との友好関係を維持する必要性を認識して定められた。米軍の運用を妨げることがないことが前提。ヘリパッド建設が進む米軍北部訓練場内の現状確認のために国会議員らが申請して却下されるなど、米側の裁量に左右される。

 米軍機事故については、沖縄国際大学へのヘリ墜落時には原因調査や捜査をめぐって米軍側が県警の現場検証を拒否した。日本政府に報告書が公表されても、両政府間の協議は伏せられるなど県民が検証するためには十分でない。

 米軍関係者が公務外で事故を起こした場合に、加害者に支払い能力がなく米国政府の支払いが裁判判決額に満たない場合は、日本側が差額を埋める見舞金制度ができた。

 請求者に対して提示する示談書には、米国政府や加害者、日本政府を免責するなどの文言が示されていた。2015年7月以降からは、被害者らに配慮して日本政府を免責するという文言は削除された。