書き下ろし小説を含む2作を収めた『月や、あらん』の刊行から4年。本書には、その間文芸誌『すばる』に発表された6編の短編小説が収められている。6編の登場人物が一貫しているという点では、連続小説に近い。

花書院・1296円/さきやま・たみ 1954年西表島生まれ。琉球大卒。88年「水上往還」が第19回九州芸術祭文学賞最優秀作。著作に「くりかえしがえし」「ゆらてぃくゆりてぃく」など

 物語は、どこからともなく聞こえてくる声に外出を阻まれた「わたし」の家の玄関に、「坊主頭」の見知らぬ男が小包を届けに来るところから始まる。心当たりがなく戸惑う「わたし」に構わず、男は荷物を押し付けて姿を消す。箱を開けると、中にはそれぞれ「記録z」、「記録y」、「記録x」と表紙に書かれたファイルが数冊入っていた。ファイルの中に書かれた最初の文がなぜか「命令文」に聞こえた「わたし」は、その響きに動かされ、ファイルを携えて物語の道を辿(たど)り始める。

 本書の「わたし」のように、崎山多美の小説の語り手は、しばしば受け身的である。夢と現実の間でどこからともなく聞こえてくる声や音、あるいは前触れもなく現れる人やモノに意識を揺り起こされ、外の世界に誘い出されるのだ。意識の割れ目にズルズルと引きずり込まれる語り手のように、読者も崎山の物語に引きずり込まれてゆく。

 しかし、そんなおどろおどろしさと表裏一体で崎山の文体の真骨頂をなすのが戦略としての「滑稽(ユーモア)」である。例えば、「地上で吸った汚染物」を浄化する「命の気体」で満ちた地下の世界「Qムラ」。そこに立てこもり、「秘密のクンレン」を遂行していたという「シンカヌチャー」。思わず「戦隊ヒーローか」とツッコミたくなる。また、「N語」に駆逐された「旧Qムラ語」など、沖縄的な身体感覚、歴史感覚、言語感覚をもつ読者であればクスリとせずにはいられないアイテムが満載である。

 とはいえ、こうしたユーモアの裏にあるのはやはり痛烈な毒であり、夢幻の表現の裏には、苦悶(くもん)と悲嘆に満ちた沖縄の現実が共在している。本書は、積み重なる遺骨の間から、忘却の彼方(かなた)から、あるいはまだ見ぬ未来から訪れる「声」を「聴くために」語ってきた崎山の語りが、「戦う語り」に変身する瞬間を示す1冊とも言えるだろう。(喜納育江・琉球大教授)