沖縄県与那原町与那原在住の屋我嗣忠さん(81)が、約71年前の太平洋戦争当時に疎開していた熊本県上益城郡飯野村(今の益城町)で通っていた飯野国民学校の同級生と交流を続けている。毎年、年末に開かれている同窓会に参加。同町は昨年、熊本地震の被害を受けたが、「同級生が無事でほっとしている。今後も交流を続けたい」と願っている。(南部報道部・天久仁)

地震での復興を願いながら「熊本との交流を続けたい」と話す屋我嗣忠さん=与那原町与那原

熊本での同窓会で友人らに囲まれる屋我嗣忠さん(上段左から3人目)=2014年2月(本人提供)

地震での復興を願いながら「熊本との交流を続けたい」と話す屋我嗣忠さん=与那原町与那原 熊本での同窓会で友人らに囲まれる屋我嗣忠さん(上段左から3人目)=2014年2月(本人提供)

 屋我さんは1944年、与那原国民学校3年生の頃、母ウシさんときょうだい5人の計6人で家族疎開した。当初は対馬丸に乗る予定だったが、前日に別の船に決まった。鹿児島到着後に対馬丸沈没を知らされたという。

 熊本の飯野国民学校で沖縄出身は屋我さん1人。見知らぬ場所で不安が大きかったが、「みんな優しくしてくれた。ひもじい思いをしたこともなかった」と振り返る。先生がおやつにイモを配る際に「あなたは沖縄出身だから大きいイモをあげよう」と言ってくれたことが今でも心に残っているという。

 終戦から約1年後、屋我さんは家族と与那原に戻った。父嗣幸さんも沖縄戦を生き延び、戦後は家族全員で焼け跡から新たな生活を始めた。

 軍作業に就き、日々の生活に忙しかった屋我さん。落ち着いた40代の頃、益城町を訪れると、同級生らが温かく迎えてくれた。それ以降、沖縄からマンゴーを贈るなどの交流が始まった。

 2014年の同窓会では「遠く離れた沖縄から参加してくれてありがたい」との内容で感謝状が贈られ、「これ以上うれしいことはなかった」と振り返る。昨年12月に現地を訪ねた際には「地震で崩れている家もあり、心が痛んだ」と屋我さん。「第二の故郷」の復興を願いながら「自分が元気な間は熊本に通いたい」と話している。