米国の州にはそれぞれ愛称があり、ニュージャージーは「ガーデン州」と呼ばれている。菜園をいじりながら現実を見つめ、空想にもふける。季節の花園とゴーヤーに囲まれる時期、沈思黙考できる私だけの場所である。 

自宅の前庭と裏庭で撮影した今年初めての積雪の景色。積雪は6センチの軽いタイプで雪掻きは簡単=米国ニュージャージー州

 初雪が積もった1月上旬、白い庭を一周したら、なぜか3、4歳の頃の記憶が浮かんだ。B29、友軍、防空壕…。私が幼児期に覚えた言葉は、戦争に関わるものばかりだった。「友軍」という単語からナィチャーやヤマトゥ男という言葉が連想され、心の中で固執していた観念がよみがえってきた。

 1964年の渡米から、出身地や民族的背景を問われ続けた。沖縄・琉球出身だと答えても反応がない時は「日本の教育が行われている、東京から飛行機で3時間位の南の島」だと説明した。

 また、米国に住む本土出身者には「沖縄にも映画館があり、英語は本土と同じく中学から習いますよ」などと答えていた。しかし「沖縄人は全く違う人種」といわんばかりの「上から目線」の反応が返ってくることも多かった。日本人から「人種差別」を受けている、と認識するようになったのは米国に来てからで、それが「友軍」の印象と結びつき、自然に本土出身者を避けるようになった。 

 琉球・ウチナー魂が私の原点である。だが、そんな同じ思いを持っていない、持とうとしないウチナーンチュに出会う事もある。言動から自然に把握できる。そんな人たちから同胞愛のウチナーアイデンティティーは感じられない。

 ウチナー魂が「退化」してしまったのだろうか、と考えざるを得ない。そんな「日本人になりきれない日本人」とか「ナィチャーかぶれ」の人たちが、実は米国に少なくないのだ。だがそんなシマンチュが沖縄にも多くいると知り、実に情けなく思う。

 2000年、故郷の名護市で「九州・沖縄(G8)サミット」が開かれた。開催前、東京の朝日新聞社会部に所属する真鍋弘樹という記者から、私の家に電話があった。サミットにちなんで、当県人会のウチナンチュをインタビューしたいとの用件だった。辺野古出身者と一緒に、家の近くで話し合った。カウンセラーという私の職業を知った真鍋記者は、別の取材として日を改めて私を訪ねて来た。日本の男性と聞き、最初は「友軍」のイメージが脳裏でちらついた。

 しかし、息子と同年代の真鍋記者の深い洞察力と真摯(しんし)に取り組む姿勢が、私の偏見を消し始めた。米国での私の専門職としての経験は朝日新聞の社会面に大きく掲載された。

 その後、東京、群馬県、北海道、そして沖縄県庁へも招かれ、児童青少年対象の精神科ケース・マネジメントのセミナーが始まることになる。

 一昨年、昨年と沖縄に帰った時、辺野古と高江の現場で反対運動をしている人たちの中に、本土出身者たちをたくさん見つけた。

 私はマイクを握ってスピーチを始める前に、本土出身者たちに対して誤解を謝り、そして感謝の念を述べた。沖縄問題へ関心を寄せるだけでなく、有言実行するという姿勢に、私は心から脱帽している。