八重山の歴史は移民の歴史ともいえる。琉球王府時代の寄人(よせびと)、琉球処分以後に流入した大和寄留民、禄(ろく)を失った首里・那覇の士族たち、明治の中期ごろからやって来た糸満の漁民、大正期に全盛を迎えた採炭事業で西表島へ送り込まれてきた炭坑夫、昭和期には台湾から農業移民もやって来た。戦中、戦後の沖縄本島からの開拓移民、隣の宮古からも多くの人々を受け入れた。

南山舎・2052円

 本書は「移民」という観点から記された八重山近代史でもあり、国家や政治体制、大資本に翻弄(ほんろう)され続けながらも必死に生きる民衆の哀(かな)しさやたくましさも浮き彫りになっている。

 寄人は強制移住させられた村人であり、首里・那覇士族の八重山開墾事業は明治政府の失業対策の一つであったが、旧王家の華族が小作料を地租として徴収し、滞納者には科料を課した。また、移住して来た士族の一部は地元の士族吏員を家臣のように使うという、二重に封建的な仕組みだった。

 八重山がカツオの好漁場として栄えた時期も、儲(もう)けのほとんどを他県や沖縄本島から来た就業者が持ち去った。西表の炭坑は、明治政府の「富国強兵」や「殖産興業」の下に開かれた大資本による囚人労働で始まった。

 脱走を許さぬ過酷な労働搾取とマラリアで坑夫(こうふ)たちは健康を害し、多くの死者を出した。八重山の農業発展に多大な貢献をした台湾からの移住者は差別に苦しみ、敗戦後は国籍も失うという境遇に陥った。戦後の琉球政府による八重山への計画移民も、背景には米軍基地建設により土地を失った農民への代償農地確保という狙いがあった。

 しかし、驚くべきは移民を受け入れ、互いの文化や独自性を認めて協調してきた八重山の懐の深さではないか。たしかに軋轢(あつれき)もあったが、最終的には多様性を活力にしながら独自の文化を築いてきた。本家アメリカは政権交代により心もとない状況だが、「八重山合衆国」は和を重んじる平和な島でありたい。(大森一也・南山舎編集)