1万8千人以上の死者・行方不明者を出した東日本大震災から、3月11日で6年がたつ。福島県を中心とした広い範囲を放射線物質で汚染し、多くの人々の故郷を奪った東京電力福島第1原発(同県大熊町、双葉町)では廃炉作業に向けた懸命の作業が続く。事故直後の危機的な状況は脱したが、溶け落ちた核燃料の取り出しや増え続ける汚染水対策ではいくつもの壁が立ちはだかる。6~8日、日本記者クラブの取材団のメンバーとして、廃炉に向けた道筋が見えない現場を訪ねた。(社会部・国吉聡志)

写真を拡大 水素爆発で大破した1号機(左)と、格納容器内の放射線量が最大毎時530シーベルトと推定されている2号機(右)。1号機の建屋のがれきは撤去されておらず、2号機の放射線量は人が被ばくしたら数十秒で死亡するレベルだ=6日、福島県・福島第1原発(代表撮影)

故郷の日常 いつ戻る

 6日朝、東京駅をバスで出発した取材団は、国道6号線を北上して福島第1原発を目指した。9割以上が「帰還困難区域」に指定されている福島県大熊町に入ると、沿道の民家の入り口や路地には侵入を防ぐフェンスが張られていた。窓ガラスが割れた家や、瓦が崩れ落ちた屋根が目につく。水田に水はなく、草や低木が茂る「原野」と化していた。

写真を拡大 東電関係者から靴にビニール袋をかぶせてもらい、1~4号機に向かうバスに乗り込む取材団。放射線が付いたごみやほこりなどを室内に持ち込まないよう、細心の注意を払う(代表撮影)

 入念な身分確認と金属探知機によるチェックを受け、第1原発構内に入る。撮影は東電側の「核燃料物質防護に関する秘密の漏えい防止」という説明で、代表者に限られた。構内はがれきの撤去や地面の舗装によって線量の低下が進み、昨年3月から装備の軽装化が実現。1~4号機周辺をのぞき、簡易マスクでの作業が始まっていた。

 事故後から現場の作業を指揮する免震重要棟に向かう通路では、何人もの作業員とすれ違った。廃炉という国家の重要プロジェクトを担うのは、どこにでもいる茶髪の若者や普通のおじさんたち。「お疲れさまです」「ご苦労さまです」と取材団に掛けてくる声は、ゴールが見えない作業を続ける自分自身を励ましているように聞こえた。

 1~4号機に向かうバスに乗る前、現場から戻った作業員2人と鉢合わせた。原子炉建屋付近での作業だったのか、顔全体を覆う「全面マスク」を取ると、2人とも若い女性だった。談笑していた1人は身に着けていた手袋を手順に沿ってごみ箱に入れた後、取材団を見てわずかにほほ笑んだ。

 免震重要棟の中にある緊急時対策本部では、約200人の職員が廃炉作業の対応に当たっていた。事故当時、吉田昌郎所長=2013年に死去=が指揮を執った部屋だ。「当時と比べたら落ち着いているが、今も緊急時だ」と東電関係者は説明する。建屋の中に残る使用済み核燃料や、格納容器内の核燃料の取り出しが終わってない現在も「原発は予断を許さない状況」と語る。

写真を拡大 免震重要棟内にある緊急時対策本部(いずれも代表撮影)

 では、廃炉作業が完了したら東電は緊急時でないと判断するのか-。こう質問した記者に、東電関係者は「判断するのは国だ。われわれは国の判断を待つしかない」と打ち明けた。

 バスから降り、水素爆発事故を起こした1号機から約100メートルまで近づいた。爆発で壊れた天井部分のがれきは事故から5年が経過しても取り除かれておらず、無残な姿をさらしていた。

 右隣には、格納容器内で推定線量毎時530シーベルトを計測した2号機があった。外見からは異常は見られないが、内部はメルトダウンを起こし、数十秒で死に至る放射線がうずまく。

 東電側が「最長40年」と説明する廃炉作業だが、道筋は見えない。「燃料は格納容器内で飛び散っている可能性があり、取り出すことなどできるのか」と問う記者に、内田俊志所長は「状況が把握できず、取り出し方法も分からない」と答えるのが精いっぱいだった。

 取材を終え沖縄に戻った9日、東電は2号機の格納容器内の推定放射線量が毎時650シーベルトに達すると発表した。過去最高値で、数十秒浴びれば人は死亡するレベルだ。1月末に同530シーベルトと推定された場所と近く、溶けた核燃料が飛び散っていることが裏付けられ、廃炉の困難さを改めて浮き彫りにした。

 無人の集落に人が住み、荒野が水田に戻る日は本当に来るのだろうか。

風評被害に悩む町村長

 福島第1原発付近の周辺の町村には住民の一部が戻り、農作業が再開するなど、復興に向けた取り組みが進む。今後も国は放射線量の状況などを見ながら、原発事故で発令した避難指示の解除に踏み切る。一方、現場の町村長からは若者の帰還率が伸びず、事故から約6年がたっても風評被害に悩む声が漏れる。

冷静に判断し手助けを 福島県浪江町・馬場有町長

 第1原発がある大熊町、双葉町に隣接する浪江町では、今も全町民約2万1千人が避難する。4月には、「帰還困難区域」を除いて避難指示が解除される予定だ。しかし馬場有(たもつ)町長は、昨年9月に実施したアンケートで約半数の町民のうち、約53%が「戻らない」と回答している現実を説明した。
 「残念な結果だが、町民は避難先で仕事を見つけ、生活の基盤を築いている」と指摘。「先祖が残した土地や文化を守るために、町自体は残さないといけない。だが子どもの教育や就労を考えたら、『戻らない』のも選択の一つだ」とおもんばかる。
 町の基幹産業だった稲作は2014年の実証栽培を経て、15年から生産・販売が再開された。だが、農家からは「作っても売れない」「市場で3分の1以下に競り落とされる」との声が聞こえてくるという。
 馬場町長は「放射線量は基準値以下で、絶対安全だ。風評に惑わされず、冷静に判断して復興を手助けしてほしい」と訴えた。

無理解にしっかり反論 福島県川内村・遠藤雄幸村長

 昨年6月に避難指示が全面解除された川内村では、3千人余だった人口の約7割が帰ってきたものの、約57%が60歳以上だ。遠藤雄幸村長は「このままだと、村は超高齢化社会になる。自治体として存続できるのか、悩む時がすぐに来る」と明かす。
 町内ではレタスやワイン用ブドウの栽培が進む。一方で、村外からは「川内の水や農作物は大丈夫なのか」との声が上がっているという。
 遠藤町長は「震災への無理解が原因の発言で、最近は反論するのに疲れた」と胸中を打ち明ける。「しかし、放置していたら風評被害が広がって、復興に水を差すことになる。うやむやにせず、はっきり『違います』と言うよう村民に言っている」と語った。