羽地ダム建設のため、沖縄県名護市の羽地大川沿いの集落は2000年、水の底に沈んだ。出身者が「山に入る」と表現する山の生活は、川と共にあった。タガラ出身の崎濱秀徳さん(85)=名護市=と、しまくとぅばの地名を手掛かりに、ダムに消えた集落の記憶をたどった。(編集委員・謝花直美)

羽地ダム建設で水没した集落付近で、当時の様子を説明する崎濱秀徳さん(右)と島袋徳次郎さん(中)。左は、渡慶次一夫支所長=名護市田井等

羽地ダム建設で水没した集落付近で、当時の様子を説明する崎濱秀徳さん(右)と島袋徳次郎さん(中)。左は、渡慶次一夫支所長=名護市田井等

 3月末、同ダム管理支所の協力で、ボートで羽地ダムを巡った。最深部は60メートル余。かつての集落を囲んだ山々の頂上から見下ろすように進む。戦前、旧羽地村田井等、羽地大川沿いには約180戸があり、炭や藍作り、農業に従事した。しかし、沖縄戦で集落が破壊された結果、人々は山を下りた。

 水面に顔を出す山々の頂上から、崎濱さんは昔の集落の記憶をたぐり寄せる。「この辺りはナビクボ。家が5、6軒あった。沖縄戦では、村の人が避難した、一番広い平たん地だ」

 しまくとぅばの地名は、当時の暮らしぶりを生き生きと伝える。「イーフ田(ダー)は大小50メートルの水田が並んでいた。ミジマイは川が曲がっていたから付いた名だ」

 ボートは地形を確かめながらゆっくりと進んだが、元の集落のはずれまで、1時間もかからない。タガラには羽地尋常高等小学校大川分教場があった。同地出身の崎濱さんは「南京陥落の後の1938年、小学生がちょうちん行列をして2時間かかった」と振り返る。かつて見上げた山の稜線(りょうせん)の位置を、ボートで進むようになるとは、想像すらしなかった。

 生活と密着した川には、場所によってさまざまな呼び名が存在する。「『マタ』は支流が本流に流れこむ場所」と崎濱さん。山肌を水が流れ、羽地大川へつながる。場所の特徴を捉えて名付けられた。「ウブシマタ」は大きな石(ウブシ)があった。「チビクンジャマタ」は出口がはっきりしないために呼ばれた。

 「ドー」は川の中の平たん地。「カシの木がたくさん生えていた場所はカシギドーだ」

 「クーブサクムイには、大きなホルトの木が枝を張っていたクムイだ」。クムイでは夏にはカニやエビ、アユが取れた。大川分教場への登校途中にきょうだいで知恵を合わせアユを手づかみした。川が曲がって流れる場所「アブガヨーマガイ」は、カニが1度に20~30キロも捕れた。「タカワタイと呼ばれた風が吹くと、カニは産卵のために下りて来た」

 川で捕った魚やカニを食べていると大人から注意を受けた。「山や海の幸がいつもあるわけではない。勤勉に農耕することを教えられた」 川の勾配は緩やかで人々は徒歩や馬車で川を行き来した。「川は道でもあり、人々の社交場でもあった」と振り返った。