沖縄県名護市安和区の比嘉義秀さん(80)は米軍統治下の琉球政府時代、1957年に映画技師の免許を取得し、大阪の映画館でも働いた。軍票B円を携えて大阪に渡航したが「大阪では使えないことを知り、実家にそのまま送り返した」と笑う。終戦後はB円からドル、本土復帰で円へ。通貨の変遷に人生を重ね合わせながら、当時を懐かしむ。

旧名護町内の映画館で働いていた頃の比嘉さん。後ろには料金表もみえる=1960年ごろ

1957年に取得した映画技師の免許を手に、ドル時代の硬貨などをみせる比嘉義秀さん=名護市安和の自宅

旧名護町内の映画館で働いていた頃の比嘉さん。後ろには料金表もみえる=1960年ごろ 1957年に取得した映画技師の免許を手に、ドル時代の硬貨などをみせる比嘉義秀さん=名護市安和の自宅

 1945年3月、安和国民学校1年生だった比嘉さんは戦火を逃れるため、祖母や母、姉妹と5人で勝山の「ガジャナク山」へ避難していた。安和の人たちが見当たらなくなり、集落に戻ると、米兵がおり、そのままトラックに乗せられ、羽地の田井等収容所などに移動させられた。

 戦後は17歳で旧名護町にあった映画館の助手として働き、映画技師を目指した。沖縄で技師の免許を取得。さらにレベルを高めたいと、大阪行きを決めた。ポケットにはB円の10円札や20円札を入れていたが「大阪に着いたら使えないと言われたので、そのまま実家へヤミで送り返した」と話す。大阪での月給は2千円。2年間働いた。

 沖縄へ戻り旧名護町の映画館で技師として再び勤務。「映画館では、うちなー芝居もやっていた。映画料金は大人23仙、中人14仙、小人11仙、ナイトショーが14仙だった。赤木圭一郎や小林旭、時代劇が全盛期だったね」と笑顔で話す。

 安和区にセメント工場ができると、28歳でセメント会社へ転職。通貨はB円からドルに変わっていた。「月給は40ドル、残業があれば45ドルだった。硬貨の10セントはペンダント、25セントでは指輪を作ったこともある。1ドルの硬貨は銀でできていたな」と目を細める。

 セメント工場勤務時代の72年5月15日、本土復帰を迎えた。「特に何もなかったが、変わったのは月給袋の中身がドルから日本円の30万円になっていたことかな」とドル硬貨を見つめた。ドル時代に借り入れで家を建てたが、2年後には円になり「円が安くてローンの返済は軽くなり、助かった」と振り返った。(玉城学通信員)