1935年の沖縄写真と一緒に見つかった、大阪朝日新聞の記者の残したメモに「糸満人の分布地図を見る児童たち」との説明がついた写真がある。場所は糸満尋常高等小学校。数字入りのマル印が付いているのは旧南洋群島、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアなど。
なぜこのような地図が作られたのか。沖縄国際大教授の吉浜忍さん(67)=沖縄近現代史=は「いわゆる『ソテツ地獄』と呼ばれた貧しさから抜け出すため、海外雄飛に光が当たったころ。移民先に地元の人がいる、と安心感をもたせる宣伝だったと思う」と読み解く。
地域史に詳しい元糸満市立中央図書館長、金城善さん(64)=同市西崎町=は撮影の2年前、「33年ごろに地図ができたのではないか」と推測する。
同年、糸満尋常高等小学校の創立50周年を祝う記念展覧会があった。翌34年発刊の記念誌には「町民の海外発展状況を図表またはグラフにしたものなどは好評を博した」との記述がある。
記念事業には「記念館の建設」もあり、金城さんは「展覧会の後、展示される場ができたのではないか」と考える。記念館とみられる校内の建物「郷土室」を卒業生の金城光栄さん(88)=同市糸満=は覚えている。ただ、地図には見覚えがない。「軍国少年」だったという金城さんの視線をくぎ付けにしたのはガラスケースに入った小銃。「日露戦争(1904~5年)の戦利品と聞いた」。少年たちが戦場にあこがれた時代だった。(「1935沖縄」取材班・堀川幸太郎)