2022年、沖縄は日本復帰50年を迎えたが、沖縄戦の傷跡は県民の暮らしにまだまだ影を落とす。その一つが不発弾だ。激しい地上戦で約20万トンもの爆弾類が使用され、約1万トンが不発弾として残ったと推定されている。

■過去にも爆発事故
沖縄県史などによると復帰前の1971年までの事故件数は1927件(死亡704人)。復帰後は13件の爆発事故が起き、6人が死亡している。
1974年、那覇市の幼稚園で、園の外堀沿いの工事中に不発弾が爆発した。3歳の女児や作業員ら計4人が死亡、34人が負傷した。
75年9月には伊良部村(現宮古島市)の鉄工所で不発弾の切断作業中に爆発事故が起こり、40代の男性が死亡。87年1月にも那覇市の廃品置き場で不発弾が爆発し、50代の男性が死亡した。
2009年1月には糸満市の歩道で水道工事中の2人が重軽傷を負い、近くの老人ホームの窓ガラスが100枚以上割れる被害があった。
■国際通りや那覇空港でも
沖縄の観光への影響も例外ではない。
2020年、那覇空港の滑走路近くで、不発弾3発が相次いで見つかった。滑走路は封鎖され、陸上自衛隊の那覇駐屯地が処理をした。1944年の10・10空襲で航空機から投下された可能性が高く、工事関係者は「今後も発見される恐れがある」と懸念している。
2018年1月には、人気観光地の国際通りで不発弾処理があった。立ち入り規制で多くの観光客や市民が足止めを食らい、土産店などは一時休業になった。静寂の中、不発弾処理を知らずに戸惑う市民や、映画の撮影と勘違いする観光客の姿もいた。
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処理に当たる自衛隊員は「人々が不発弾に慣れてしまっているとも感じた。いつ沖縄からなくなるか」と危惧する。
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沖縄県の推計では、20年度末時点で回収されていない不発弾は1906トン。国や県は処理に年間約30億円の予算をかけているが、近年の処理量で進めると全ての処理に100年近くかかる計算となる。気が遠くなるような期間がかかる見通しだ。