[創刊75年 沖縄をみつめて](1)米軍毒ガス移送
通り慣れた道、いつもの風景。そこに溶け込み、普段は気に留めたことがないコンクリート製の看板があった。
「ここだったのか」
50年余り前、沖縄タイムス記者の玉城真幸(27)=当時=は目を奪われた。
「267TH CHEMICAL COMPANY」(第267化学中隊)と書かれていた。
1969年7月18日付で、米国の新聞が「沖縄の米軍基地で致死性の高い毒ガスが漏れ、24人が病院に運ばれた」と報じた。
玉城が素通りしていた看板を掲げた場所は、毒ガスの貯蔵施設だったのだ。
サリンやVXガスといった非人道的な兵器を巡り、使用禁止に向けた枠組みを国際社会が模索し始め、関心が高まっていた時期だった。
本紙は毒ガスの種類と特性、日米両政府や琉球政府、立法院の対応を報じた。玉城はそれに加え、住民たちの不安や怒りをつぶさに伝えることを重視した。
当時の勤務先は嘉手納支局。知花弾薬庫で働く軍雇用員から、米軍が厳重に警戒する「ある施設」の話を聞き付けた。
そこには扉や窓に鉛を取り付けた小屋があった。火災が起きると鉛が熱で溶け、小屋を密閉するためだ。中の貯蔵物が、外に漏れ出さない仕組みという。小屋の周囲にはヤギやウサギが放たれていた。
この施設の出入り口に「化学中隊」の看板が掲げられていた。玉城がカメラを向けると、日傘を差した住民の女性と少女が横切った。よくある日常的な光景だ。「県民が何も知らされぬまま、危険と隣り合わせで生活していることをまざまざと感じた」。この現実を報じることこそ、地元紙の役割だと胸に刻んだ。
米軍はこの時点で貯蔵する毒ガスの種類や場所を公表していなかった。報道で知った県民に、衝撃が広がった。
玉城は軍雇用員の話を記事にまとめた。「住民たちは不安や恐怖を通り越し、手の付けようがないといった表情だった」と締めくくり、看板の写真を掲載した。翌日、看板の文字は白いペンキで塗り隠されていた。
(敬称略)
■マスク着用の求め拒否 住民側の立場で取材
米軍が知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫)に貯蔵していた約1万3千トンの毒ガスは、2回に分けて太平洋沖のジョンストン島へ移送されることになった。
当時の琉球政府や立法院、住民たちが抗議し、撤去を求める声を上げ続けた結果だ。1972年の復帰を前に、核兵器の撤去などとともに、毒ガスの県外搬出も大きな課題の一つになっていた。第1次移送は71年1月13日、150トンのマスタードガスを運び出す作業だった。
米軍は移送計画を発表した際、道路沿いの住民は安全なので避難する必要はないとの考えを伝えていた。ただ、米国内では移送経路の半径6~48キロの範囲で住民を避難させるなどの安全基準がある。にもかかわらず、沖縄では一方的に「安全」を押し付けるばかり。住民らは「県民軽視」と不満をぶつけた。
1次移送は2日間延期された後、琉球政府が(1)住民の自主避難の費用を負担する(2)2次移送の経路変更を米軍に働きかける-との方針で地元の了承を得て、実施された。
約5千人の住民が生活を犠牲にして避難を余儀なくされた。米軍は移送の際、作業員と取材する報道陣だけにガスマスクを配布する方針を打ち出した。
実は本紙は、天願桟橋(現うるま市)に停泊する船に毒ガスを搬入する写真を撮れていない。マスクの着用を、記者が拒否したからだ。
取材した玉城真幸(81)は「マスクを着けさせるのは、危険が伴うから。避難する必要はないという米軍の説明と矛盾していた」と振り返る。
拒否すれば取材はできない。「大きな事件なのだから、何が何でも取材すべきだ」「マスコミだけが守られていいのか」。社内では意見が割れた。結論は「マスクを着用しない」だった。当時の本紙記者たちは、マスクを配布されない住民と同じ立場に立つことを選んだ。
ほとんどのマスコミがマスクを着用し、天願桟橋に入った。本紙カメラマンは丘の上から望遠レンズで撮影したが、うまくいかず、共同通信が配信した写真を掲載するしかなかった。
玉城は「報道機関として正しかったか。今でも議論があるだろう」と語る。
後日談で、当時の編集局長・比嘉盛香が結論を社長の上地一史に伝える際、胸ポケットに辞表を忍ばせていたと知った。
「編集が決めたようにすればいい」。上地は短く答えたという。「他社と差がつくと分かっていた取材体制を、会社全体が認めたということだ」。玉城はこう説明する。
当時は報道で戦争に加担した経験や、米軍統治下での言論統制を知る先輩がまだ残っていた。誰もが多くを語らなかったが「迷ったら住民の側に立て」という姿勢を感じ取った。
(編集委員・福元大輔)
◇ ◇
沖縄タイムスは7月1日に創刊75年を迎える。記者たちは何を考え、悩み、戦後史を刻んできたのか。県民の文化や生活を取り戻すため、どのような事業を展開してきたか。連載で振り返る。
[ことば]
米軍毒ガス移送 1969年7月、米軍の知花弾薬庫で毒ガス漏れ事故が発生した。住民の反発を受け、米軍は太平洋にある米領ジョンストン島への移送を決定。マスタードガスやサリンなど1万3千トン余りを71年1月13日の1次、同7月15日~9月9日の2次に分け、現うるま市の天願桟橋から搬出した。