[ボーダーレス 伊江島の78年](6)

 1955年、13戸の住宅を焼き打ちした米軍が代わりに用意したカバヤー(テント小屋)は、ひどく粗末なものだった。雨が降れば、床に敷かれたすのこの下を流れる水が見えた。

 山城キヨさん(92)は「地面に石を置いて、鍋を乗っけて汁を作った。グラグラするからよくひっくり返して、そうなると食べるのは芋だけ」と振り返る。

 テント村の視察に、沖縄本島から青年団体の役員が来た。来てくれたのはいいが、住民が食べていた芋くずを試食して「食べられたもんじゃない」と、あからさまな拒否反応を示した。

 安里正春さん(84)は地元真謝区の青年として一行を案内していた。「言葉がなかった。あの時の気持ちは…。悔しいと表現すればいいのか」と苦い表情を浮かべる。

 家を追われた13戸だけでなく、多くの真謝区民が畑を接収された。生き残る道は限られていた。糸満売り(漁師への年季奉公)に出される青年が相次ぎ、海で命を落とした人もいる。...