大阪朝日新聞の記者が1935年の糸満で写した子どもたちには「糸満売り」された子がいたかもしれない。糸満では「雇い子」と呼ばれ、親が手にする現金と引き換えに、返済のため20歳まで漁師のもとで働いた。
その始まりを明治時代半ばとみているのは法政大沖縄文化研究所国内研究員の加藤久子さん=神奈川県。80年代から、糸満の漁業史などについて古老の聞き取りを続けている。
加藤さんによると、糸満の漁師は大型追い込み網漁「アギヤー」を編みだし、その担い手として多くの人手が必要になった。加藤さんは「農村を中心に、食べるにも困っていた本島各地や離島の事情と、糸満の需要がかみあった」と考える。
森茂吉さん(99)=糸満市西崎=は「13歳の時、7年間150円」で糸満売りされた。生まれ故郷は鹿児島の与論島で父1人、子4人の貧しい家だった。「漁で身を立てれば貧乏から抜け出せると思って、後で弟も呼び寄せた」
森さんは泳ぎが得意だったため、じきに年下の雇い子9人のまとめ役を任された。「娘3人だけの家で、息子代わりにかわいがられた」。米を食べさせてもらい、親方の娘たちからうらやましがられた。
20歳で親方の娘と結婚した。義理の親になった親方夫婦と妻をみとった今も糸満に住み、子ども6人、孫10人、ひ孫14人がいる。現代では、人権侵害に当たる糸満売り。森さんは「家族のために故郷を出て、家族が増えた。悪くない人生」と話していた。(「1935沖縄」取材班・堀川幸太郎)