着物姿でカンプー(結い髪)を結い、対面で「アチネー」(商い)をする女性たち。にぎわいをみせるのは、戦前、現在の那覇市東町にあった「那覇ウフマチ(大市)」と呼ばれた公設市場だ。肉や魚、米や雑貨など、品物ごとに販売する場所が分かれ、場所を借りて商売が行われた。写真左には戦前の沖縄で「唐傘(とうがさ)」と呼ばれ、一般的に使われていた大きな傘が広げられている。背後には木造とみられる屋根付きの建物で商売をする人の姿が見える。
糸数昌和さん(83)=那覇市泉崎=は1933年12月、那覇ウフマチの近くで生まれた。5、6歳から市場周辺で友だちと遊び、祖母と買い物をした風景を覚えている。「遠方からも訪れる人がおり、人出が多かった。『ウレー上等』(これは上等だ)とか、『ウレー高サン』(これは高い)と、会話をしながら品定めをした。芝居の出演者が『マチマーイ』(町歩き)をして宣伝をするなど、活気があった」と当時を振り返る。
糸数さんの家は、ウフマチの中でも、特に反物や布類を販売する「ヌヌマチ」と呼ばれた場所にあった。近くには那覇市役所もあり当時最も活気がある場所だった。戦況悪化に伴い「那覇は危ない」と、44年8月に宮崎県に疎開した。
47年に那覇に戻ると、生まれ育ったにぎやかな街はなくなっていた。わずかに残っていたのは、コンクリート造りの建物跡だけだった。「当時の人々の姿や風景がとても懐かしい。貴重な沖縄の昔の姿だ」と写真を眺めていた。(「1935沖縄」取材班・与儀武秀)
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